どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

世界をこしらえるということ

 どんな世界も、自分にぴったりとしない。どこまでも自分に都合の良い世界なんてない。どこにもない。かと言って、うまく生きることができないというわけでもないんだろう。多くの人にとってはね。自分には、難しい。
 難しいと思い込んでいるだけで、そうでもないのかもしれない。自分にフィットした世界があって、自分に合った人たちと出会えたら、それだけで結構楽しく生きることができるんじゃないかと夢想する。
 物語を書くことは、自分の世界をこしらえることなんじゃないかと思うようになった。自分にぴったりくる世界をそうしてつくっている。それが文章の中にだけある、ということは重々承知している。それが自分にだけ都合がいいということも。それでも、自分にフィットした世界をこの生きにくい世界に存在させるためには、自分が創造するしかない。いや、それは想造と言った方がいいのかもしれない。そうすることで少しでも自分の気休めになるような気がしている。
 造るって言ったってそんなに大袈裟なことではない。自分にフィットした話を書けたら、それだけで満足できるような類のものだ。それだけでいいと思う。それを楽しんでくれる人がいたならもっと嬉しいが、それはおまけみたいなものだ。文字というそれだけで表現された、それだけだからこそ表現できることがある。そして、自分にフィットしたものは、自分でつくり出すしかないのだ。他者の作ったどんなに面白いものであっても、自分にフィットしているとは言えない。面白いというだけでは何かが足りないのだ。そして、それは自分でつくり出さなくてはならないものになった。自分が書かなくては満足できないものになった。なにを読んでも、満足できないのだ。面白いとは思う。だけれど、自分にフィットしているとは言い難い。自分の血肉がそこに紛れていない。自分の身を削ってはいない。自分の心の形に合っていない。体にも当然あっていない。面白いのかもしれない。でも、なにか違和感をずっと抱えたまま、それは嫉妬でもなく、なんだか浮ついた気持ちで読んでいる。そういう時間がずっと過ぎた。
 自分にこしらえたい世界があるのではないかと思うようになった。何より今は時間がある。意思さえあれば書くことができるだろう。自分にフィットした世界が欲しくなった。その中で生きるのではなく、その世界を構築することで生きたい。書くことの道程に、何があるのかわからない。意思の力がどこまで有効なのかもわからない。自分に意思なんてないのかもしれない。それでも、自分の世界をこしらえたい。それだけなのだけど。
 私という人間を介して、何かを作ることを、ずっとしたかった。それが文章なのかもわからなかった。なんでもいいのかもしれない。世界を作ることができるのなら。
 書いたなりのものしかできないのなら、やめた方がいい。自分の精魂を込められるのなら、そうしたい。自分にフィットしたものが書けたなら、そんなにうれしいことはない。それは、永遠に限りのない模索だろう。書いても書いてもずっと、ずっと、自分と書いたものとのズレを感じて書き続けるに違いない。それでもいい。書くことができるのなら、そんなにうれしいことはないと思う。