どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

どうせいなかった人

 なんでかわからないけれど、ぼくなんてどうせいなかった、みたいなことを、折に触れて思う。誰かと接触したり組織に所属したりするたびに、接しはしたけれど、そもそもぼくなんてそこにいなかった世界線というのもあって、だから、いてもいなくても同じなんじゃないか、だからここを離れることに対してなんの躊躇もない、と思うことが、人生にたくさんあった。だって、そもそもいないんだもの。いなかったんだもの。どこにも。
 初めからそこにいた場所なんてない。家族、というか両親くらいなのではないか。ぼくがこの世界に生き始めて、最初からそこに互いにいたのは。それ以外のどこにも、ぼくはいない、あるいはいなかった。ある時から何かの縁でそこにいたわけだけど、結局いないこともありえたわけで、だったらいなくても、いなくなっても同じだろう、って考えてしまう。刹那的というか、自分が人に影響するとか役に立つとかそんな考えにどうしてもなれない。どうせいなかった人間が、その場所に偶々いて、それから去ることに、あんまり感慨がない。意味も感じない。だから携帯の電話帳もあっさり消してしまう。たまたまいただけじゃないか、って感じで。
 自分と、自分以外の人との関係みたいなものを、あまり信じていない。その関係性みたいなものを。どうやったって、この人でなくてはならない人なんていないんじゃないか。ぼくらはそんなにたいした人間ではない。少なくとも、ぼくは。
 そういうふうに思ってくれる人がいたとしても、やっぱりぼくにとってのぼくはそういう人間でしかない。つまり、そこにいても、そこに縁があったとしても、いなかった可能性のあった人間、としかやっぱり思えない。今にも消えてしまいそうだよね。
 今んところ生きることしか考えていないけれど、なるべく生きようと思っているけれど、自分にそんなに価値があるとはやっぱり思えないし、価値を見出そうという人のことを胡散臭いと思ってしまう。ぼくを利用しようとしている人としか見られない。本当に好意でぼくを見る人なんて、いるんだろうか。
 どうせいなかった人間、というのは、どこにもいない人間になってしまう。そして、現にそうなっている。ぼくは今、ほとんどどこにもいない。どこにも影響していない。作用していない。作用できるとも思っていない。作用したいともあんまり思っていない。作用したところで、ここにいるべきではない人間が、ここにいてしまって何かをしてしまったと思うんだろう。そして、どうせここにいた人間じゃなかったと思いつつ、また自分の中に引きこもるに違いない。自分の居場所がどこかに見つかる気がしない。
 それでも書くのは、書いている間だけは、自分がここにいることを、いていいことを実感できるからだ。書いている間だけ。自分がきちんと生きている、作用できるかもしれない、作用してもいい、書いたことでなら、と思えているからだ。そうじゃなきゃ、書かない。
 心の中のどっかでは、どうせいなかった人間だけど、いてくれてよかったなぁ、と思ってもらいたいのだと思う。だから、やっぱり、書くんだと思うし。