どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

今日もどこかで雲が雨を降らせている

 今日もどこかで雲が雨を降らせている。
 雨なんて降る予報ではなかったのに、いつの間にかその予報も変わって、実際に雨が降っている。そうやって、天気に翻弄される人間がこの世界に一定数いて、そうやってまた、あぁと思っているのだろう。そのあぁ、には、いろんな吐息が混じっている。天気予報はいつも外れる。たまに当たる。そのくらいに思っていた方がいい。天気というのは実にあてにならない。どうでもいいことでもないし、予報は当たるに越したことはないのだけど、当たるとも限らず、ただ、それに翻弄される人が次々と倒れていく。
 今日も、雨だ。雲が、雨を降らせている。その雲の運行がどうなるかで、天気は変わっていく。その予測をするのが天気予報なのだろうけれど、それもやはりあてにはならない。あてにしている人間は阿呆である。当たるかもしれない、くらいでいないとダメだ。雨と言って曇りに終わる。暑くなると言ってそうでもない。どこにあたりがあるのかなんてわからない。どこにでも人はいるから、そのどの地点でも当たりを出さなくてはならない。その難しさと言ったらない。
 天気に翻弄される人が多いのは、天気がどこにでもあって、その天気に翻弄される人がどこにでもいるからだろう。雨が降ると体調が悪くなる人がいる。私は幸運なことにそうではない。そういう人は大変だろう。気圧の変化を体で感じるというのは、そうではない自分にはよくわからないことだ。雨のたびに体調の悪さを感じる人というのはいる。そういう人は、雨を恨むだろう。しかし、雨の降るこの街にこの季節にいることは、彼女の気持ちを揺さぶらせるには十分だった。
 雨は彼女にいろんなことを思い出させる。彼氏と歩いた道。一本の傘をさして歩いたこと。雨の日に別れたこと。雨にずぶ濡れになって、自分を情けなく思ったこと。どうでもいいことばかり思い出す。自分の少ない恋愛経験に、花を添える思い出なんておもいださない。いつもつらいことばかり思い出しているような気がする。雨に、楽しい思い出なんてあっただろうか。雨の日にディズニーランドに行ったこと。そうして、楽しく過ごしたこと。それでも、楽しかったろうか。どこにでもある楽しみを享受したに過ぎないのではないか。どこに楽しみがあるだろう。悲しいってなんなのか。雨は悲しいか。嬉しいか。それは人によるだろう。どこにでも人はいる。いろんな人がいる。雨を降ることを心待ちにしている人だってこの広い世界にはいるんだろう。そういう人のことを考えることは楽しい。雨の日のディズニーランドに行くよりもずっと。
 そうやって彼女は空想の中に生きることが多かった。自分のすることよりも、自分の想像する世界の中で生きることの方が多かった。そうやって生きてきたのだ。それが、役に立ったことはない。役立てようと思ったこともない。彼女にとってはどうでもいいことだった。空想することなんて。妄想と言えるかもしれない。そのくらいにどうでもいいことだった。
 雲があればそのうちに雨を降らせる。その雨は河となって、海に流れ込む。海には生物がたくさん住んでいる。その中には、彼女を喜ばせるものもあるかもしれない。彼女はどんなことで雨が自分を喜ばせるのか知らない。自分の気がついていないところで、雨の恩恵をきっと受けているだろう。今日の晩に食べる食事だって、きっと、雨無しには考えられないことだろう。自分の心苦しさをいつの間にか雨は癒しているのかもしれない。どこでどう作用して彼女の心を支配しているかなんてわからない。雨の方は彼女を支配しようとなんてしていない。彼女が勝手にそう動いているに過ぎない。何かに仕組まれているみたいに。その意味では彼女を支配するものなんてない。ただ、縁が、ただ、運が、彼女を支配しているみたいに見せているいろんなことの総体をもって、彼女は生きている。彼女は自分が生かされていることを知っている。生きていることを当たり前とは思っていない人種である。だから、彼女のことを変に思う人だっているかもしれない。彼女のことをどうでもいいと思う人がいるのは当たり前のことだ。それでも彼女が特別だとしたら、彼女の死に対する考え方のためだろう。彼女は、生きることを当たり前のことだと思っていない。少なくとも、雲があれば雨が降る、ということとは比べ物にならないくらいに当たり前ではない。彼女を彼女たらしめているのは、死に対する観念によってだった。

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 今日もどこかで雲は雨を降らせている。
 どこにも行けないぼくは、その雨を眺めているだけに過ぎない。雨が恋しい。恋しいが、それを被るのはごめんだと思っている。そんなに面倒なことはない。遠くで見ているくらいがちょうどいい。TVショーを見るみたいに。雲という雨の醸造装置のことを、美しいと思う。それがあるだけで、地上に雨を降らせることができる。雨みたいなものは素晴らしい。それなくして、人間は生きることはできないだろう。でも、ぼく自身が、ほかを於いてぼくが、それに打たれるのは面倒なのだ。この世界の誰かがそれを被っていたらいい。そうやって世界が成立することを、ぼくは喜ばしいと思っている。人はみんな自分勝手だ。
 雨なんて降ればいいと思うのに、自分が傘を差すのはごめんだと思っている。そう思い込んでいるだけで、実際に雨が降れば、それはどうでもいいこと、と思っているのだろう。そのくらいのことでしかない。雨が降ることなんて。ただの地表現象に過ぎない。
 人間のすることに、意味なんてないなんて思ったりしてしまう。この地球からしたら、宇宙からしたら、人類の進歩なんてなんの意味もないだろう。意味があるのは人類にとってだけだ。大袈裟に言っても、地球にとってだけだろう。あるいは、地球から程近いところの宇宙にとってだけだろう。そんなにたいしたことではない。
 今日もぼくは家の中から地球を見ている。いや、雨を見ている。なぜ、水みたいなものが空から降ってくるのか、不思議に思ったことはあるだろうか。それってものすごくシュールなことなのに。小さい頃から当たり前に雨というものがあると知っているから、不思議に思わないだけで。
 雲は湧くさ。でも、それは雨を降らせるためじゃない。ただ地表温度だとか、大気温だとかいろんな気象条件によって降るかどうか決まっているだけだ。そうやってシステマナイズされている。そのことに人類はほとんど影響することができない。少なくとも、意図的には。
 雨が降る、という話をしていたのだった。ぼくは幸いにも、雨が降っても体調は崩れない。でも、そういう人がいるらしいことは知っている。それがぼくの大事な人だったら、気にかけるだろう。でも、ぼくの近しい人にもそういう人は幸いにもいないので、ぼくはその事実からほったらかしになっている。TVショーを見るみたいに。雨が降ることによる人類の影響、なんて、考えても仕方のないことだ。この地球に人はいくらでもいるし、その人たち全員に気をかけているわけでもない。ぼくはぼくの持ち分を生きているだけに過ぎない。人によってその持ち分は違うし、ぼくはその程度の自分を志して生きている。それでいいとも思っている。
 ぼくという入れ物に不満というわけでもない。満足しているというわけでもない。多くの人がそうであるように。ことさらに自分を変えたいと思うこともない。ぼくは恵まれているのだろうか。ぼくはぼくを肯定しつつあった。それは、ぼくの両親から受け取った、ぼくだけの宝物かもしれない。
 雲があると雨が降るように、ぼくの自己肯定感は、突き抜けている。かと言って十分にあるとも言えなかった。どういうことなのか、自分でもよくわからない。とにかく、バランスが取れていない。どういうわけかぼくはぼくのバランスをとることができない。精神のバランスを。ぼくが生きていることに、過不足はない、はず。生きていることを肯定することも、否定することもない。ただ、生かされているから生きているに過ぎない。相応のことをして。TVショーが放映されているみたいに。生きていることをなんとも思わないように、死ぬことだってなんとも思わないだろう。雲から水が垂れることは、雲にとっての死だろうか。そういう見方も、ひょっとするとできるのかもしれない。でも、雲は自分の死を思わない。死を思うのは人間だけだろう。人間を人間にしているのは、死ぬという自意識なのかもしれない。人は死ぬ。生きているのと同じに当たり前のことだ。いくらでも生きることはできない。死ぬまで生きるだけだ。そのことを決定することができる人は少ない。自分の生や死をコントロールすることは、忌避されている。なんとなく、そんな気がしている。雲は自死しない。ただ生きるごとく生きているだけに過ぎない。先にも言ったようにシステムとして生きるだけである。それ以上のことではない。雲がもし、生きたいと思ったとしても、生きることはできない。生き続けることは叶わない。人間にとっても、その程度のことなのかもしれない。もう少しだけ、自由度があるのだけど。
 その、生き方を、問う。雲の生き方を問うのは、気象庁くらいのものだ。生きていることの価値を、人はなんとも思わない。ただの偶然で起きることがあまりに多く、人のコントロール下に及ばないことが多すぎる。それでも、人は自分がやったと思うことは得意なようだ。要するにどうでもいいのだ。自分の持ち物でなんとか楽しく生きるこということだけに過ぎない。それでいいと思う。というか、それだけでしかない。

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今日も何処かで雲は雨を降らせている。
 猫はそのひげに水分を感ずる。ともすると、雨の降る前に雨が降ることも知っているのかもしれない。猫は、いろんなことを知っている。なんでも知っているというわけではないが、それでも、人間よりも物知りかもしれない。どこにでもいる猫それぞれが、いろんなことを知っていて、それを共有している。彼らなりのやり方で。彼女もそうだ。
 彼女は猫ではないが、いろんなことを知っている。彼女なりの方法で。彼女の知っていることといえば、昨日、彼氏が浮気したであろうとか、水道のつまりが起こっているのは自分の髪の毛が原因であろうとか、彼女の母親が最近怒っているのは自分のせいであろうとか、そんなことだ。猫とは大分違うのだけれど、それでも彼女は彼女なりに知っていた。
 多くの人がそうかもしれない。その人はその人なりにいろんなことを知っているものだ。その人の知りうる限りのことを知っている。そうあるべきものとして、知っていることを知っている。そうして行動している。それだけだ。人の人生なんて。そんなに大したことではない。何かを知っていることが、何かの得になることもあれば、そうでもないこともある。どうでもいいことを知っていて、楽しい思いをする人もいれば、知るべきことを知っていて今晩の食事にありつけない人もいるんだろう。
 人の楽しみなんて、人それぞれだ。猫の知っていることを知ることに無情の喜びを感じる人もいるのだろう。彼氏の浮気を追求することに躍起になっている自分の自我を、恥ずかしいと思う女もいる。ここにいる。
 彼女は、どこにでもいる、普通の女だった。女というべき女だった。ことさらに女らしいというわけではなくて、どこにでもいる、いわゆる量産型の女だ。いい男に躍起になるし、恋をしていたい。している仕事だって、できるのなら寿退社でもして辞めたいと思っている。どうでもいいことは多いのに、自分を大事にしてくれる人は見つからないと思っている。どこかに王子様がいるのではないかと、小さい頃から思ってきた。だけれど、そんな人はいないのだろうとも思っている。そんな自分でさえもどうでもいい。自分がどうでもいいから人のこともどうでも良くて、だから彼氏は浮気するのだろうと、うっすら気がついている。猫が髭を大事にするみたいに、彼女は自分の髪の毛を大事にしている。女子なら当たり前のことだ。でも、彼女には当たり前ということがなんなのかわからなくなっている。疑うというほどではないが、こうして女らしくしていることがそもそもそわからなくなったりしている。本当にそうしたくてそうしているのか。そうせざるを得なくて、そうしないと格好がつかないからそうしているに過ぎないのではないか。私は生きたい生を生きているのか自分でもわからなくなってくる。どこにでもいる自分が、何かをしでかすこともないのはわかっている。ときどき、旅行するくらいである。何かをするといえば。その程度のことだ。自分の一足跳びなんて。お金を払えば、どこかに行ける。そうしてまた元の生活に戻ってくる。どこにでもいる自分は、誰でも享受する幸せを手に入れるのだろうと漠然と思っていた。そうでもないかもしれないとも思っていた。自分の人生を自分で手綱を持っているなんて感覚はなくて、ただ、流されるままに今の仕事をして、今の彼氏と付き合い、そうして生きている。それが当たり前のことだった。
 彼氏と出会ったのは職場でだ。そこで彼にアタックして付き合うことになった。こんなに浮気癖があるようには見えなかった。しかし、これでもう6回目だ。だんだんどういう時に浮気をするのかわかってきた。どうでもいい自分が嫌になる。それでも彼と別れないのは、他にいい人がいないからかもしれない。彼を特別に愛しているというわけでもない。どうでもいいわけでもないけれど、むしろ自分の方がどうでもいい存在なのかもしれない。いい人がいたらそちらに乗り換えるかもしれない。そういう自分もやはり彼氏と似ていて、だから浮気されても当たり前と、心の何処かで思っている。たぶん。猫の雨の予感と同じことだ。
 雨が降る予感がする。天気の話ではなくて、自分の心模様のことだ。雨の予感がしてたまらない。また親友に電話して泣き言を聞いてもらうことになりそうだ。雲のあるところに雨は降る。これは、彼の浮気だけが原因ではないと、なんとなく察していた。いろんなことに無理が生じている。どこにいたって自分は自分だ。どこにいたって生きていられるという気がしている。それなのに。破裂しそうな雲が自分の頭の上に浮かんでいる。もう、豪雨待ったなしだ。旅行なんてしても無駄だろう。これは泣いて泣いて、そうしてなんとかまたやっていくのだ、と自分で自分に決めている。そうやって自分は成っているということも段々わかってきた。段々と壊れてくるおもちゃみたいに、自分をなんとか成り立たせている。メンテナンスを自分でできるのだけが取り柄かもしれない。いつも、なんとかなっている。なんとかしてきたのだ。親友はいつも真摯に話を聞いてくれる。もしかしたらそう見せかけているだけなのかもしれないけれど、それで十分なのだ。自分をなんとか成り立たせることで、自分をなんとかしている。そうして、彼女はなんとか幸せだった。

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 今日もどこかで雲が雨を降らせている。