どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

頭の中を埋めうること

 被害者ぶるのを、やめようと思う。そう思う途端に、自分を支えているものがなくなった気になって、身体の調子が悪くなってしまった。おそらく、いろんな人は、いろんな心の支えを以って生きているんだろう。僕の場合はそれが被害者ヅラすることだったんじゃないか。そんな気がしている。
 そのことの是非にはもう決着はついている。被害者ぶることで自分を守ってきたのだ。でも、それはもうやめようと。そうやって自分をなんとか立たせるのはやめようと。そうしても、仕方がない、と。自分が被害者になることで何かを守ったつもりになっても、何もうまない。自分がどんどん弱く、不安に、か細く、なっていくだけだから。
 被害者とか加害者とかそういう思考から外れる。とにかく外れる。それでもぼくの脳細胞は勝手に自分を被害者にしてしまう。そういうふうになっている。お医者さんからも、それが完治することは難しいかもしれないというお墨付きである。それでも。なんとか自分を立たせる方向で、ぼくは生きようとおもう。
 生きていくためにそうする。自分一人で勝手に被害者になっても、何も変わらない。世界は、変わらない。誰かを糾弾するわけでもなく、不平を訴えるわけでもなく、ただ一人で苦しんでいることは、つらい。死んでしまいたいくらい。
 だけれど、それに抗うことにした。薬の力も借りるけれど、それだけでは足りない。自分の決意として、意思として、自分を立たせることにする。自分は被害者でもなく、もちろん加害者でもなく、ただ、何かを糧にして生きるのだ。そうすることができる。自分を弱くすることで生きない。誰かを糾弾するつもりになって生きない。そうやって自分を気休めしない。自分は、自分として生きる。
 今の自分が大事なのであって、今の自分が何をするか何を考えるか、それだけが大事なのであって、それ以外のことは些細なことだ。過去の他者とかそういうことに構っていることは不可思議だ。被害者ぶるということはそういうことである。被害者ぶるということは過去の自分が他人によってもたらされる災厄である。今の自分が被っていることは今の自分が今の問題として処理すればよい。被害者ぶるというのはそういうことではない。自分の、過去に起こったことについて他者に対して訝しがることだ。こうだったからこうなった、ということをあれこれ引っ掻き回して悩むことだ。悩むことは何も生まない。何も進展しない。何も解決しない。今の問題になっていない全ては、解決のしようがない。
 それでも、私はそうしてしまう。そういう病気だから。
 何か、依って立つものが必要である。それは、なんなのだろう。自分の頭の中を、今の自分にとって大事なことで満たすことができたらいいのに。妄想でもいい。何か具体的な事象で自分の頭の中を満たすことができたらいいのに。
 それは、書くことなんじゃないかと思ったりする。
 書くことは現実である。現実の、作品と呼ぶには陳腐なのだが形となって顕れる。具体的なのである。そして、それは私の頭の中で作られ、この手を以ってこの世界にかたち作られる。自分にそういう能力があって、それにまつわる努力ができたらどんなにいいだろう。
 被害者意識に捉われないために、私は書こうと思う。できる限りを。自分の脳みその限界まで使うことができたらどんなにいいだろう。それなら、ちょっとはマシなものが書けるんじゃないか。そういう妄想さえもこうして文章になる。
 どんな人も、自分の人生を生きる方がいい。何かに捉われたり、誤魔化しの中に生きるよりは、自分の人生をきちんと生きる方がいい。私は、できる限りを尽くして生きたい。どこかにそうできる媒介がないだろうかといつもうかがっている。被害者意識に捉われることは無益である。書くことで、ある種の加害者となろう。書くことの感染を、書物にしたためて、それを以って人を楽しませることができたなら、どんなにいいだろう。
 被害者であることをやめよう。私は、少しでも楽しく生きたい。少しでも人を楽しませることで生きたい。そのためにできることをしよう。できるだろう。そう決めたなら。書き続けよう。書く意思のあるうちは。