どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人の役に立つということ

 人を役立ててばかりで、つまりは人に頼ってばかりで、人の役に立とうと思えていなかった。自分一人で生きているつもりになっているわけじゃないけれど、ほとんどそうなのかもしれない。関わっている人は少ない。誰かのために生きているという実感はないし、生きるので精一杯という感じなのだけど、自分が何かしたら、誰かの役に立てるのかもしれないという感覚は持っている。でも、それを実行する機会はない。どうしたらいいのか。
 誰かの役に立ちたいと思うようになった。父が亡くなってから、余計にそう思うようになった。誰の役にも立たずに死ぬのは嫌だな、と、つとに思う。自分の持ち物や修練したことで、人の役に立てたらどんなにいいだろうと、思う。自分とはいったいなんなのかとか、そういうことまで考えてしまう。社会の中の立ち位置というか。自分の存在意義というか。このままでは、遅かれ早かれ、悔いを残して死ぬことになるだろう。誰かの役に立ちたい、という気持ちは強い。
 今はせめて、母の役に立とうと生きているような気がしている。母の役に立たない日は自分を情けなく思うだろう。
 生きるのに精一杯であることと、自分勝手に生きることの境界線はない。自分をいかに賭すか、ということなのかもしれない。そこの踏ん切りがつかないから、いろんなことがうまくいかないのだろう。せめて自分を人の役に立てようと思えない限り、進むべき道はないし、そうあるのなら、つまり人の役に立ちたいと思えるのなら、何かできることはあるに違いないとは思う。そう思えているうちはいいと思う。
 では、具体的にどうしたらうまく自分を守ったまま人の役に立てるのだろうか、ということになると、とんと見当がつかない。自分を守る必要なんてないという人もいるのだろうけれど、わたしのことはわたしが一番よくわかっている。わたしはわたしを守らなくては死んでしまう。その上で人の役に立つことが大事なのだと思う。
 どうしたら自分のペースで人の役に立てるのだろうかと思う。本気でそう考えているだろうか。自分のできることを理解しようとしているだろうか。どうすることが人の役に立つことだと思っているのだろうか。何もしないことを自分に言い訳していないか。何かできることはないだろうかと日々考えているだろうか。
 自分の経験したことを文章にするのはどうだろうか。そのことでどのくらいの人の役に立てるのだろう。経験の内容にもよるだろうけれど、そして、どのくらいの人に読んでもらえるのかにもよるのだろうけど、それで人の役に立てるだろうか。文章を書くということは、どういうことなのか、まだ実はよくわかっていない。ただ、書きたいことを書いているだけだから。本当に人の役に立てる文章を書くことができたなら、読んでもらえるはず。そのために、できることは多いはず。つまり、人の役に立つ文章を書き、それを人に読んでもらう工夫ということだ。そう思えば、力が湧いてくるような気がする。それなら、自分のペースを守ることができるだろう。自分を守りつつ人の役に立てるのなら、そんなにいいことはない。
 大事なことは、人の役に立つことだ。それをどう自分を介して実行するのかということなのだろう。自分を媒介にして、人の役に立てるのなら、自分にできることがあるのなら、できることをしようと思い続けること。そう具体的に考えることができているうちは、社会に参加しているといえよう。何を以って人の役に立てるのかなんてわからない。ただ、自分を、社会に役立てようと本当に思うのなら、できることはあるはずだということ。自分が、自分という人間が生きている限りは、できることが必ずあるはずで、それを追求し続けることでしか、社会の中に生きているとは言えない。どうしたらそうできるのか、きちんと考えることでしか、本当に生きることはできない。せめて、生きようと思う。今まで生きてきたのだから。今まで、生きることを選んできたのだから。次のステップに進んでもいいと思う。人の役に立って生きることを考えてもいい時期に来ていると思う。考えよう。自分と向き合おう。自分を動かそう。自分を愛でよう。生きるために。