どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

能動的な幸せの感受について

 ぼくが報いを受けなくてはならないなんて、きいてない。なんでぼくはこんな目にあっているのか。なんで皆はいい思いをしているのに、ぼくはこんなんなのだ。自分から奪われたものを、思う。私は人を信じなくなった。
 いや、深いところでは、信じているに違いない。そして、人を信じたいと思っているに違いない。それでも、自分に起きたことの整合性を保つために、人を信じないことにしている。そうした方が、楽だからだろう。自分の方を守るために、私は人のことを信じないことにした。そういうスタンスを保つことにした。でも、本当には、人のことを信じたいんだと思う。そうできないから、自分が苦しいし、いろんなことがうまくいかない。歯車が噛み合わない。人との出会いを、うまく活かすことができない。そもそも、人と出会わない。どこにもいけない。
 人生は、そんな被害者的発想から逃れた方がいい。ただひたすらに自分の生きたいように生き、したいことをし、得たいものを得、そうしてさっさと幸福になった方がいい。そうするものだけが、幸福になれる。くよくよ悩んでいるだけ無駄である。さっさと幸せに向かって突っ込んでいったものが、幸せになれる。自分が被害者であることにも気付かずに、どんどん幸せになれるものだけが、幸せになれる。そうできている。自分の不幸とは関係なく、幸せをつかもうとする者のみに幸せは訪れる。不幸せと向き合ってはならない。向き合えば向き合うほどに不幸せになっていく。かさにかかって不幸せは襲ってくる。どんどん不幸になる。
 どうあっても、自分は自分として生きるのだ。人のことなんて関係ない。自分を不幸にする人間は蔑ろにしてよい。とにかく、自分が幸せになることを考えること。そこは、自分勝手でいい。誰も、私の幸せなど考えてはくれない。幸せになるようになど計らってはくれない。自分の幸せの責任は、自分で持つのだ。何が幸せかなんて、人によって違う。何によって幸せになるのかは、人によって違う。どうやって幸せになるかは、自分で決めるのだ。幸せと向き合うことだ。きちんと。そうでしか、幸せになれない。
 誰かを恨んでも、羨んでも、幸せにはなれない。自分を自分から貶めても、幸せにはならない。自分が能動的に幸せになろうとすることでしか、幸せにはなれない。
 被害者意識を持つということは、受動的なのだ。誰かが危害を加えるから、自分は被害者なのだ。被害者でいられるのだ。幸せになりたいのなら、被害者でいることをやめるべきだ。他人がどうあっても関係ないのだ。自分がただただ幸せであればいい。そうあろうと刻苦勉励することには変わりない。他者はそのことに関与しない。人によって幸せになるのではなくて、自分によって幸せになる。その時そばに人がいるのはいい。だけれど、人によって幸せを妨げられる、ってことがある。人の意識によって、妨げられる。それは、つまるところ自分の意識である。自分の方から幸せを逃している。自分は幸せになってはいけないと思っている。思い込んでいる。それがもう、被害者意識なのだと思う。
 人の意識は、人の課題でしかない。その人の課題でしかない。自分の幸せとは関係がない。人によって幸せになることもあろう。ただ、それは、自分がそうあろうとしているからだ。幸せを受け入れているからだ。だから、そうなれる。人の行動によって自分が幸せになる、あるいは不幸せになる、そのどちらもあるが、結局、選択しているのは自分であると思う。一緒にいたくなければいなければいい。幸せになることを考えているのなら、当たり前のことだ。その人と一緒にいれば幸せなら、そうするだろう。
 能動的にいろんなことを進めることができたら、どんなにいいだろう。攻めの姿勢を忘れないことだ。幸せを掴み取るのだ、といつも思えていたらどんなにいいだろう。受け身にならず、幸せでいようといつも思えることでしか、幸せにはなれない、最近はそう思っている。