どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人のせいにすることの不幸

 自分に起きた不幸の何もかもを、人のせいにするな。そのほとんどは自分のせいである。たとえそれが病気であったとしても、結局は自分の生き方が招いたもの。そんなことですら自分のせいなのだ。その不幸のほとんどは自分のせいであって、人のせいではない。
 自分に起きた不幸を、人のせいにすることは卑しいことである。とどのつまり自分の行動に自分で尻を拭けない人間は、それを人のせいにする、してしまう。自分の悪行、悪手が招いたことなのに。運命なんて言葉、どうでもいいけれど、結局それを招いたのは自分であるという認識もなく、ただただ嘆いたり絶叫したりすることの、あるいは復讐しようとすることのなんという浅ましさよ、卑しさよ。
 人のせいにしている暇があるのなら、自分でそれを取り返そうとするべきだ。取り返したいことなのならね。人生は自分のしたいようにできることもできないこともある。どうにもならないことさえも含めて自分のせいなのだ。自分が生まれてきたから、今の自分がある。生きていることは生かされているとも言えるし、生きているとも言える。生きるから生がある。生きてきたから生がある。その連綿でしかないのだ生は。生まれた瞬間から決まっていることもあるし、そうでもないこともある。それでさえも乗り越えて、いかに幸せになるか、だ。それだけなんだ。自分から自分の不幸に浸って人のせいにしていることは、何も生まない。その誰かに私を幸福にすることはできない。ただ不幸を増長するだけだ。その誰かが何かをしたとしても、私は決して幸福になることはない。不幸を誰かのせいにしていても、何も良いことはない。何も解決しないからだ。ただ自分の中で燻り続けるだけ。嘆き続けるだけ。私はこんな不幸を背負って生きている。だから私を哀れんで。そうやって、自分の不幸を作り上げているのもまた自分である。不幸を招いたのは自分。あるいは自分の運命である。自分がそれを受けたということは、それを自分は背負っているということ。その責任は自分にあるのであって、それは人のせいではない。自分のせいである。加害している人が悪くないと言っているのではない。加害者にはその責任がある。だけれど、それを受け取ってしまうことさえも自分で背負わなくてはならないと言っている。
 縁でこの世界は、この社会は成り立っている。それをどう受け取るのかは、また個人の問題。不運をどう受け取るのか、幸運をどう受け取るのか、それはあなた次第。他人のせいにしていても、自分が永遠に不幸になるだけ。自分になんの落ち度もないのか、なんの因果関係もないのか、自分に問うてみよ。自分が生まれてから死ぬまでの幸運を考えよ。
 人は幸せになるために生まれてきた。人を恨んでも、幸せになることはない。なるべく健やかに生きることは幸せのために必定。どう生きるのか。答えは明らかだ。人のせいにはするな。自分が負え、その不幸も幸運も、幸せも。生きろ。幸せになるために。