どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

マスクにまつわるお話

「マスクあるっけ? 今日、仕事なのに風邪をひいてしまった」
 私は素っ気なく答える。──あるんじゃない? そこの引き出しとか。
「不織布のマスクがいいんだけど。シャレてなくていいからさ」
 そういうと、彼はいろんな引き出しを開けたり締めたりし始めた。時々、ゴホゴホ言っている。風邪をひいたからと言ってマスクをするのは日本人くらいのもの、と、誰かが言っていたけれど、本当だろうか。世界は広い。ちょっとくらい、そんな文化があってもいいような気がする。
「あった! これ、もらっていくよ」
 ──はいよー、とベッドの上から応えて、私はまた寝てしまった。朝食を作る当番は、今日は彼なのだ。私は安心して眠ることができる。同じベッドで一晩寝たのに、彼だけ風邪をひいて、私はどうやらひいていない。何がその違いを作ったのだろうか。
 起きると、彼はもういなくて、朝食が私を待っていた。いつものこと。私も、仕事だ。
 
 夕方、彼がやって来た。今日は残業しなかったらしい。
 ──どうしたの? そっち行こうと思ってたのに、と私がいうと彼は歯にかんで応えた。
「風邪なら治ったよ。仕事も捗ったし良かった良かった。一応って、みんなに帰されたけど、なんてことはない。マスクも捨てちゃったし」
 ──そう、ならいいけど。私がそう言うと彼は続けた。
「なんか夕食作るのもな、と思ったから来ちゃった。今日の夕食はなにかな?」
 ──今日はシチューよ。夏風邪ひいた誰かさんが暖まるようにって。
「いいね。シチューライスにしようかな。ご飯ある?」
 ──そう言うと思って炊いてある。持って行く手間が省けてよかったわ。
「風邪、ひかなかった? 大丈夫?」
 ──平気よ、全然。なんであなただけなのかしらね。
「職場でもひいている人いたから、感染ったのかも。マスクありがとう」
 ──そう、今日は追い込みだったから助かったわ。
 そう言うと私たちはキスをしようとして、止めた。「ふふっ」と彼が笑う。
「マスクまだある? マスク越しにしようか?」
 ──えー、いいよ。もったいないし。と言って、私は彼のほっぺたにチュッとした。
 私たちはいつもこんな感じだった。互いの家を行き来し、食事をし、ときどき寝る。特に連絡を取ることもなく、いろんなことが馴染んでいく。半同棲みたいになって、半年くらい経つ。どこにでもいるカップルだ。
 マスク越しのキッスも、今だけなのだろう。こんなに些細なこと、きっと、いつか忘れてしまう。私たちの生活に起こったこと。でも、彼と愛しく愛し合ったことは忘れないだろう。いつか、どこかへいってしまうとしても、今日という日々を、忘れまいと思ったのだった。(了)