どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

夏と死

 死んでしまった人が、上から見ているような気がしてる。あるいは草葉の陰だろうか。私たちは思い出した時にだけそう都合よく思うし、思い出さなければ、彼らはもういないのと同じなのだ。見ていると思っている自分の思いが、それが見ていると思わせている。そう、わかってはいるがどうしてもいる気がしてしまう。妻が亡くなって、一年が経とうとしていた。
 彼女を失った空虚はどうにも埋まらず、私は悶々と過ごすだけだった。これから人生で、夏になるたびに思い出してしまうのかもしれない。夏の草いきれしげる頃、妻は亡くなった。癌だった。最期の闘病生活で、髪を切ったのは私だった。私たちの拠り所はもうか細く、確かに生きているという確信を持てる微かな証拠をたぐり寄せるように、髪を数センチ切り、さっぱりしたねと互いを褒め称えあったのだった。髪を切られる妻は可愛らしかった。妻のくせっ毛に奮闘し、笑い合い、そうして築き上げた生活のことを思った。
 妻のいない生活に、私たちはすっかり慣れてしまった。どこかで見ているかもしれない彼女のことを、私は考えている。彼女と生きることができてよかったと思うと同時に、彼女がもういないことの寂しさを感じる。彼女がどんなに私たちを見つめていようが、彼女はもうこの世界にはいないのだ。この世界にいる人たちは必ずいつかいなくなる。私を知っている人がいなくなったなら、私の存在そのものがないものになるのか。少なくとも私がいるというその存在感はなくなるんだろう。それが悲しくて仕方ない。
 病床で切った髪の毛は、今もとってある。彼女の形見となったそれは、私がいなくなったら、誰か知らない人の髪の毛になってしまうんだろう。生きている人の中にその人がいなくなったら、その人は本当にいなくなってしまう。ただ連綿とつながれていく襷の受け渡しの走者でしかなくなる。人のことを思う。
 この世界には生きていてはいけない人なんていない。きっと誰かはだれかの大事な人なのだ。この命だって、きっと、簡単に消えてしまう。ひとを思う。
 こんなに偶然だとか才能だとか生まれだとか努力だとか、いろんなことに翻弄されるのに、死んだあとは一瞬。いなくなった後のことは何もできない。残された人たちに任せるしかない。自分のことも、世界も。そうして、私という個体は忘れ去られてしまう。
 失われた命が、天寿を全うすることはすくない。大抵は、何かの途中途上で死んでしまう。妻のことを思う。
 私がこの世にいる限り、妻は上から見てくれている。あるいは草葉の陰から。私はどこにいても妻を感じている。それで、いいのだと思う。(了)