どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

自分なんかが、と思ってしまうことについて

 謙遜でも何でもなく、自分なんかが、と思ってしまう。突き詰めれば、鬱なのもそれが原因かもしれない。どちらが原因かももはやわからない。自分をおとしめようとして、自分を責めるようなことを考えてしまう日々。それに他人を利用してしまうのだから、世話がない。全部、自分なんかが、と思っている自分が悪いのはわかっている。そう思いたくて、自分をおとしめてしまうのだと思う。それが、自分の鬱的な心情の原因になっているのだと思う。
 自分のことを、知っているようで知らない。自分に何ができるかを、うまく把握できていない。ひょっとしたらできることを、できないと錯覚したり、できないことにしているのかもしれない。うまく自分を扱えないのだ。うまく運用できていない。誰にも期待されていないし、認められてもいない。ただ日々はつづく。期待されたいとも、認められたいとも思っていない。そうしなければできないことは多いのだけど、そうしようと思えないのだ。
 人に認められたら、それで自尊心は満たされるのかと言ったら、どうもそうでもないらしい。それで自分を苦しめた結果、私は病んでしまった。認められたいと願ったわけでもないのに認められてしまった結果、私は体調を崩した。自分のしたいこと、本当にしたいことは何なのか、いまだにわからないでいる。
 自分で自分を認めたいのかもしれない。他者を介さずに、自分で自分を認めることは難しいことなのかもしれない。だけど、この人に認められたいということがない。うまく自分を扱えないと、開き直って自分を責めている日々。
 自分のすることでしか、自分を認めることはできない。自分がどうするかでしか、自分に期待することはできない。自分なんかが、と思うとき、私は何かから逃げている。開き直っているのかもしれない。自分なんかがと思うことは容易い。自分を低く見積もったり、できないと嘆いたり、自分みたいなもんがと思うことは容易い。そして、その多くは、自分が自分にそう強いている。自分でそれでいいと思ってそうしていることは実は多い。その程度でいいや、と思っているのは自分なのだ。できないことをできるようにしていくのが、生きていてするべきことなのかもしれない。自分のしたいことを見つけて、それを実行していくのが、人生なのかもしれない。やろうと思わなくてはできない。自分なんかがと思っている人間にできることは少ない。機会もない。意欲もなくなるだろう。自分なんかが、と思うことは、卑しいことだ。そうやって、自分に保険を打っている。できなくても、自分なんかにできるはずがなかったんだ、って。自分にできる範囲はこの程度なんだ、って。自分なんかと低く見積もっている限り、自分に降ってくる満足は少ない。というかない。
 自分にはできるという根拠のない自信を持つのではなく、地に足をつけた努力をしない限り、人は何かをできるようにならない。したいことができるようにはならない。本当にしたいことが何なのかを気づくこともない。ただ日々の喧騒に巻き込まれて生きざるを得なくなってしまう。
 自分をおとしめてしまう思考の癖を消すことは簡単ではない。でも、自分なんかが、と思うことをやめることはできるだろう。他人に頼ることなく、自負心を養うことができるのかもわからない。人に認められていったら、自分なんかがと思わずに済むのかもしれない。果たして本当にそうなのだろうか。自分で自分を認めることができなかったら、何をしていても、空虚なままだろう。人に認められることは大事なことだ。恋愛は、その極致だと思う。だけど、自分で自分を認めずに、できることは少ない。自分なんかがって、思いすぎている。それは、自分のせいだ。自分で何とかしなくてはいけない、自分の課題だ。たぶん、いろんな理由から、僕は自分なんかがって思っているのだと思う。だけど、それですら、自分で選んでいる可能性はある。だって、足掻いていない。人によって、自分によって、自分なんかが、って思っている。うまく、自尊心を育むことができたら。うまく、自分を扱うことができたら。そう願って、今日も生きている。