どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

コーヒーと楽しみ

 ぜんぶ、コーヒーがあれば解決すると思っていた。自分の中のことは、コーヒーがあればなんとかなると思っていた。不思議とそう思っていた。この世界がうまくいかなかったり、いや、違う、自分がうまくいかなくて、本当に心底ついていないなと思うときだって、コーヒーを飲んだら安心した。それが僕のちょっとした真理だった。
 世界は、くそだ。そう思ったこともある。だけど、この不条理な世界を乗り切れない、楽しめない自分がいて、その自分がくそなだけであって、世界は平然としてあるだけなのだ。世界がくそだという人間が、くそなだけで、楽しんでいる人は楽しんでいる。何が正しいのか正しくないのかだって、世界は決めない。ただ楽しんでいる人がいる、そうでもない人がいる、それだけの話なのだ。
 コーヒーは僕を落ち着かせる。そんな僕を。たじろいでいる僕に一呼吸くれるのだ。この世界でどう生きたらいいのかわからない僕だって、なんとか生きていられるような気がするのは、コーヒーがあったからだ。それはなんでもない、ただの飲み物であって、それによって何かが変わるというわけでもない。いたたまれない日常を生きている人間に一呼吸おくことをさせるのは、コーヒーだった。コーヒーがあるから生きていられると言っても言い過ぎじゃない。世界にどんなに絶望しても、コーヒーは世界は変わらずにそこにあった。
 コーヒーを通して世界を楽しんでいるのかもしれないと思う。苦いコーヒーを飲むことで、世界の何かを感じているのかもしれなかった。あるいは、コーヒーによって近づく死を私は享受しているのかもしれない。
 コーヒーを飲むことで私の中にできる構え。それによって一気に集中したり、ほころんだりする。世界はあるようにある。ないものはない。誰かの意思だったとしても、それはそれで世界だ。自分の意に沿わないものは避けるしかないし、楽しめるものは楽しんだらいい。問題なのは、この世界を楽しみきれない自分にある。問題なのは、他ならぬ自分なのだ。いろんなことをセーブし、抑圧し、節制し、楽しむことができていない。あれはダメこれはダメこれはしないこれはしてはいけない、いろんなことで自分を縛っているのは自分である。楽しみを享受することは、本来的に自由であるはずなのに。いろんな理由によって、自分から楽しめないようにしている。そんなのは馬鹿げている。それでも、やめられないのが人間なのかもしれないと思ったりもする。
 楽しむことをしなければ、楽しめない。楽しもうと思わなければ、楽しめない。私には楽しいことは少ないような気がする。人と比べてどうかということではなくて、生きている総体として絶対量が少ない。楽しまなくては人生は楽しくないのだ。そんなことはわかっているつもりだ。つもりなのだけど、全然わかっていない。楽しもうと思えないからだ。楽しもうと思えないように世界がデザインされているのではなくて、自分が楽しめないから、楽しくないのだ。コーヒーの苦味はそんなふうにデザインされている。つまり、楽しもうと思えば美味しい飲み物になるし、苦いと思ったらただ苦い飲み物に過ぎない。
 人間はいつか死ぬ。コーヒーを飲もうが飲むまいが死ぬ。人は何をしていたって死んでしまう。何かの道の途中で。意思の途中で。
 楽しめているか、それを問うために今日も、僕はコーヒーを飲む。