どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

自分の都合、人の都合

 みんなそれぞれに自分の都合というものがあるのだろうと思う。人との接触は、自分の都合と人の都合との兼ね合いなのだと思う。そこがうまく歯車が回っていかないと、何もできない。上手くいかない。
 他人との接触がほぼない今の私には、人の都合を慮ることができないかもしれない。人とうまくやっていく自信がない。そうなってしまったのは、流行り病のせいではなくて、自分自身のせいなのだけど、それでも、このままで大丈夫なのか、と不安になったりする。
 人の都合と自分の都合との兼ね合いだけでなくて、自分自身との兼ね合いもある。私はよく、自分に都合よく考えてしまう。実際にはできること、できないこと、したいこと、したくないこと、そういうことをよく混同する。自分の都合に合わせて歪めてしまう。そこには自分の思惑があり、希望があり、願望がある。こうあったらいいな、が自分のありようを歪めてしまう。自分に都合よく考えるとき、何かの辻褄がきっと合っていない。それなのに、私は生きていて、それこそ都合よく生きていて、たぶん、明日も生きる。その綻びはきっとどこかに出ていて、それでさえ自分の都合で見て見ぬふりをしたり、なかったことにしたりしているのかもしれない。あるいは無意識に、あるいは一瞬の短時間で。
 だからなのかもしれない。自分に都合よく考えている人のことを見ると気になってしまう。そんな、自分に都合よく考えても、上手くいかないよ、などと自分を棚に上げて思ってしまう。だけど、自分だってそうなのだ。人のことはつぶさに見えるのに、自分のことは上手く見ることができない。
 現実を見つめること、把握することでしか、何かを歪めずに変えることはできない。自分の都合とは違う現実をきちんと見つめて、向き合って初めて何かをすることができる。自分の都合は邪魔なのだ。そんなこと、知ったことではないと言わんばかりに、関係ないことだ。ただやること、やるべきこと、したいことがあるだけ。それを達成可能かどうかは、自分の都合とは関係ない。いや、大いに関係があるのだけど、自分の都合が邪魔になってはいけない。自分で自分を歪めてはいけない。できないものをできると思ったり、できることをできないと思ったり。多くの場合は、プライドとか、見栄が関係しているのだと思う。このくらいはできなくては、という。現実を見据えていない。自分のできること、できないことを把握できていない。
 あるいは、こういうこともある。自分に都合の悪い考えが目の前に現れると、自分を罰してしまう。そうやって、自分を貶めることによって、自分を歪めている。自分を罰することと、目の前の自分に都合の悪いことは、全く関連・関係がない。自分の発想として、自分を貶めている。そうやって都合の悪いことから目を逸らしているのだと思う。自分を罰することによって、意識はそちらに集中し、罰している自分と罰せられている自分とによって、一杯いっぱいになってしまう。頭の中は罰せられている自分で溢れかえる。そうやって、自分に都合の悪いことは頭の中から飛んでいく。結果として、現実を捉えることはできず、何も解決しないのだ。
 自分に都合の悪いという現実がある。そのことを直視できない。だから自分を歪めてしまう。関係ないことを考えて誤魔化してしまう。忘れようとする。私の頭の中はそうなっている。そうなることで忙しい。
 ひたすらに、現実を捉え続けることでしかない。今、何ができるか。何をするべきか。現実を見据えることでしか、できるものもできないし、やりたいこともやれない。今、何が大事か、ということに焦点が当たっていないと何事もうまくいかない。何を優先するべきなのか。何に力を入れるべきなのか。何に集中するべきなのか。現実を歪めていないか。
 自分の都合、というものが邪魔なのかもしれない。そこに隠れているプライドだとか見栄だとか、このくらいはできないといけない、これは持っていないといけない、あるいは自分の現実はこうであるという都合の悪さは、いつの間にか自分の中に芽生えている自分の都合から来ている。自分の都合というものをうまく無くすことができたら、いろんなことがうまくいくのではないか。なんだってオーケー、なんだってウェルカム、なんだってどんとこい、という気持ちでいたら、現実を歪める必要なんてないし、自分に都合よく考えることもないし、自分に都合が悪いということもない。
 人との関係性もそういう時はうまくいくような気がする。自分の都合を押し付け合うから、うまくいかないのだ。相手に対する配慮を欠き、自分の都合ばかりを優先するから、うまくいかないのだ。自分の都合が通っている時、相手は都合を手放している。だからうまくいくように見えているというだけで、互いが互いの都合を尊重せず、自分のしたいことばかりしていたら、うまくいかない。
 こうあらねばならない、という気持ちは、多くの場合、窮屈だ。それによって現実を歪めるのなら尚更である。どんなものでもそれはそれで良い、という心境になれたら、なんだってうまくいくようになるのではないか。少なくとも、自由である。受け身で生きるという意味ではなくて、そういう状況を作るということだ。この状況でならば、なんだって受け入れるという状況を。場を。人を。そう生きることができるのなら、幸せなことだと、今の私は思ったりする。