どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

彼といたら地獄も

 正月早々、歯痛になった。
 もう、最悪。
 彼と会う約束も、台無し。私はご機嫌斜めで彼と会う羽目になった。我慢するにはするのだけど、何をしていても、歯がじんじんと痛む気がして落ち着かない。年越し蕎麦も、お節もお餅も、この痛む歯で食べた。
「歯が痛むの、助けて……」
 私は、どうしようもないことを彼に言ってしまった。痛いことを訴えたところで、私が悪いし、彼にはどうしようもない。どうしろというのだろう。こんなこと言って。でも、彼は優しかった。
「あ、そう。じゃあ、今日の映画は無しにしようか。集中できないでしょう。代わりに、話を聞いてあげる」
 私は悔しかった。年の初めからこんなことになるなんて。デートが台無しだ。でも、それを正直に言えてよかった。虫歯は彼のせいではもちろんないし、私の機嫌が悪いのも彼のせいではない。今日はもう帰りたいと思った。そのくらい痛かった。それでも彼は帰してはくれなかった。彼の目を一目見て、それでいいと思っていたのだけど、どんどん気分が変わっていった。晴れやかに。楽しくなってきた。
「歯、痛む?」
 彼はときどき聞いてくれた。その度に大丈夫と応えていた。不思議と大丈夫な気がした。真冬の寒空ではどこも寒い。かと言って喫茶店にいることもできなかった。コーヒーが沁みる気がしたから。とにかく口から離れたかった。意識を飛ばしたかった。ときどき、苦痛に歪む顔をしているような気がする。ブサイクだ。きっと。
「そんな顔しないで? 大丈夫?」
 苦虫を噛み潰したような顔をきっとしていたのだろう。私はハッと我に返った。今まで、こんなに間の悪いことはなかった。私はいつだって気前が良くて、気立てだって良くて、しっかりした自分を演じていた。それがうまくいかなくなっていた。私はとぼけていた。もう、どうにでもなってしまえと思った。こんな自分、可愛くない。そう自分を責めた。お正月だし歯医者もやっていない。サイアク。それ以上に、彼との時間を大事にしたかった。したかったのに。
「ごめんね、今日はもう帰ろうかな。帰って寝るよ」
「疲れてるんならそうしなよ。歯が痛いのなら、もう少し付き合って。大丈夫だよね。ごめんね」
 私たちはそうやって互いに謝ってから、また歩き出した。私の手を握る彼の手が暖かかった。それから、フードコートのベンチに座って、二人で喋ったのだった。彼といられて嬉しかった。彼との時間は他の時間とは違っていた。歯痛はあったけれど、なんとかなっていた。会話に夢中で、なんとかなっていた。だんだんといつもの調子になってきて、自分を取り戻した気持ちになった。彼に、感謝した。こんな自分でも受け入れてくれる彼でよかった。何度も帰る、と言ったけれど、帰らなくてよかった。こんな時間を過ごせるのなら、また歯痛になってもいいかな、なんて思った。地獄にいても、彼となら楽しかった。

楽しもうとすること

 楽しもうとすること。楽しいことは、待っていてもこない。自分で作るか、取りに行くかしなくては享受できない。まれに降ってくることもあるようだけど、少なくとも私にはない。楽しみに対する積極的な姿勢を取れずにいる。ここ数年。心のどこかで私なんかが楽しんでいいのだろうかと思っているような気がする。どうあっても、私なんか、がついてまわる。だから、楽しもうとすること。
 私はこの年になるまで、人生を楽しむことができなかった。今でも楽しめてはいない。人生で最高の一年なんてきそうにはないし、一日だって怪しい。どうでもいいことを考え、何もせず、ただ生きている。生きているだけましなのかもしれない。楽しみはあまりに少なく、生きているのが不思議なくらいだ。趣味も特技もない。ただ日常があるだけ。これといって特徴のない、ただの人でしかない。目標に向かって努力することもしていないし、するつもりもない。そもそも目標がない。楽しそうな目標を人参にして馬のように走ることができたらどんなにいいだろうと思う。積極性が足りないのだ、どうにも。
 ただ一つ、熱中できることといえば、書くことくらいで、それだって楽しめているつもりになっているだけで、実際にはなんの実にもならない不毛の果実でしかない。書いてなんの意味があるのか、自分でも疑問だけれど、書くことだけは続いている。駄文を積み重ねても、それなりの達成感によって自分を駆動しているだけのような気がする。書くことで得られる楽しみはあまりに少ない。せいぜい書いている間の充実感だけである。書くことに時間を費やしているという不毛さには気にも留めず、書いて自分の内部が引っ張り出され、構築されていくことに酔っている。それだけなのだと思う。そうして自分のことがわかった気になる。実際には、人間とは人と人との関係である。自分一人で何かがわかった気になるのは不毛なのだ。自分との関係でしか語れないのだから。せいぜいが過去の自分について考えることが関の山。それだってやはり不毛なのだ。過去の自分の状況は今とは違うかもしれない。安心したいだけなのだ。自分をなぞることによって。今を楽しんでいないという現実がずっとある。今、ここ、がないのだ。何かを楽しんでいる自分がいないのだ。ずっと自分を見失っている気分だ。
 書くことを、もっと楽しめないだろうか。もっともっと積極的に。今、ここ、の自分を充実するような楽しみ方ができたらいいのにと思う。そのためには圧倒的に書くことが必要だろうし、生半可な気持ちではできないだろう。何かを賭して本気で書かなくてはいけない。すべてを楽しみのために。自分を従えて。
 書いたものを、読んだ人が楽しんでくれることほど、うれしいことはないのです。その上、自分も楽しめたら、言うことはない。その文章に関わる人すべてが幸せになるように今年も願います。きっと、ヒントはそこら中にある。それを掴んだときに、どうやってそれをものにするか、表現するか、にかかっている。書くことは永遠と続く。どこかに迷い込まないように。また、今日も。

愛のある振る舞いをいつだってされたいと思っている

 私は、愛のない行動を受けることが多かった。その結果、社会からあぶれてしまっているのが、今の現状なのだと思う。人をそもそも信じていないような感じがするし、愛を感じることが少なかった。だからといって、人に対して愛のない行動をするかというと、そうでもない、かもしれない。自信はない。愛のある行動をしたりしなかったりなのだろう。相手によるかもしれない。
 私は、常識というのが怖い。常識から外れた、まともではない行動をする人間には、愛のない振る舞いをしてもいいというのが、人類の掟みたいなものなのかもしれない。
 私は、まともではなかったかもしれない。何もかもがまともな人間なんているんだろうか。常識というのが怖い。恐れている。常識を守らなくてはいけないという人の目が怖い。そして、それから外れた人間に対する愛のない振る舞いが怖い。
 私はある人たちから、愛のない行動をしても構わないという烙印を押されていたし、それが全てではないとわかっているつもりではあるのだけれど、結果として社会からあぶれてしまった。愛のある振る舞いをしてもらうにはどうしたらいいのか、いまだによくわからない。
 時々、愛のある振る舞いをしてくれる人は現れていた。だから、私は今も生きているのかもしれない。かろうじて、だけれど。愛を知らないわけではない。だけど、いつだって愛されるという確信を持てない。群れの掟に従わなければ、愛のある行動をしてもらえないのだろうか。私は、不幸にも群れの掟を守れないことがあった。自分の嗜好のせいであると思う。自分の流儀が、少し人と違っているせいなのだと思う。やはり、常識は怖い。流行りの音楽、俳優、アイドル、お笑い、そういうものに興味がなかった。そういう結果として、愛のある振る舞いをしてもらえないことがあった。それだけのことと言ったら、それまでなのだけど、自分のフィットする群れを探すのに難儀した。この世界の、どこかにはあるのかもしれない。私は一つの群れにフィットしなかったからと言って、それだけで社会から阻害されている気分になっている。人生って、自分にフィットする群れを探し続ける旅のように感じてる。今は、そういう希望を持って生きている。相変わらず常識は怖いし、常識って群ごとにあったりする。それを素早く察知してフィットしていく柔軟さが私にはない。自分を変えることが難しい。自分の嗜好みたいなものがあって、その流儀を変えることが難しかったりする。自分の心地よさの方が、群れにフィットするよりも大事なのかもしれない。
 自分の心地よさをうまく表現して、生きていくことができたらいいのだけど、今のところそういう手立てはない。技術がないし、媒体も浮かばない。自分のように、居心地の悪さを感じて生きている人たち。群れにフィットしないことに怯えながら、それでもなんとか愛のない振る舞いの中で生きている人たち。愛さえあればいいと思う。私は不幸なことに、愛のない人たちと出会って時を過ごしてしまった。それだけのこと。私に愛を与えてくれる人が必ずいる。そういう場が必ずある。なるべく常識内に納まろうと努力しつつ、今日もフィットする群れを探そうとできたらいいのに。群れから外れ、独りでいる自分は、その務めを怠っている。フィットしたいと思える魅力的な群れはなく、常識は今日も怖い。一人でいる方がずっと楽になってしまっている。
 群れにフィットできない自分を、肯定できずにいる。そうやって、自己肯定感は削られていく。それが良いことなのか悪いことなのかも判断できずに、どうでもいいこととして、独りで生きてしまっている。生きれてしまっている。そうやって、愛からまた遠ざかっていくのだと思う。愛のある振る舞いを享受できないということが、私を苦しめている。そうやって孤独は深まり、またサイクルしていく。
 間違いないことは、愛を、心のどこかで求めているということだ。それだけは確かだ。愛の心地よさを知っている。愛のある振る舞いをいつだってされたいと思っている。このサイクルを断ち切るためには、群れの中に飛び込んで、順応していくしかない。それだけの柔軟さを、自分に課さなくてはいけない。そう思える魅力的な群れが、見つかると良いのだけど。今のところ、群れというものがそもそも自分には見えていない。そのくらいに、孤独は深まってしまっているのだと思う。