どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

楽しもうとすること

 楽しもうとすること。楽しいことは、待っていてもこない。自分で作るか、取りに行くかしなくては享受できない。まれに降ってくることもあるようだけど、少なくとも私にはない。楽しみに対する積極的な姿勢を取れずにいる。ここ数年。心のどこかで私なんかが楽しんでいいのだろうかと思っているような気がする。どうあっても、私なんか、がついてまわる。だから、楽しもうとすること。
 私はこの年になるまで、人生を楽しむことができなかった。今でも楽しめてはいない。人生で最高の一年なんてきそうにはないし、一日だって怪しい。どうでもいいことを考え、何もせず、ただ生きている。生きているだけましなのかもしれない。楽しみはあまりに少なく、生きているのが不思議なくらいだ。趣味も特技もない。ただ日常があるだけ。これといって特徴のない、ただの人でしかない。目標に向かって努力することもしていないし、するつもりもない。そもそも目標がない。楽しそうな目標を人参にして馬のように走ることができたらどんなにいいだろうと思う。積極性が足りないのだ、どうにも。
 ただ一つ、熱中できることといえば、書くことくらいで、それだって楽しめているつもりになっているだけで、実際にはなんの実にもならない不毛の果実でしかない。書いてなんの意味があるのか、自分でも疑問だけれど、書くことだけは続いている。駄文を積み重ねても、それなりの達成感によって自分を駆動しているだけのような気がする。書くことで得られる楽しみはあまりに少ない。せいぜい書いている間の充実感だけである。書くことに時間を費やしているという不毛さには気にも留めず、書いて自分の内部が引っ張り出され、構築されていくことに酔っている。それだけなのだと思う。そうして自分のことがわかった気になる。実際には、人間とは人と人との関係である。自分一人で何かがわかった気になるのは不毛なのだ。自分との関係でしか語れないのだから。せいぜいが過去の自分について考えることが関の山。それだってやはり不毛なのだ。過去の自分の状況は今とは違うかもしれない。安心したいだけなのだ。自分をなぞることによって。今を楽しんでいないという現実がずっとある。今、ここ、がないのだ。何かを楽しんでいる自分がいないのだ。ずっと自分を見失っている気分だ。
 書くことを、もっと楽しめないだろうか。もっともっと積極的に。今、ここ、の自分を充実するような楽しみ方ができたらいいのにと思う。そのためには圧倒的に書くことが必要だろうし、生半可な気持ちではできないだろう。何かを賭して本気で書かなくてはいけない。すべてを楽しみのために。自分を従えて。
 書いたものを、読んだ人が楽しんでくれることほど、うれしいことはないのです。その上、自分も楽しめたら、言うことはない。その文章に関わる人すべてが幸せになるように今年も願います。きっと、ヒントはそこら中にある。それを掴んだときに、どうやってそれをものにするか、表現するか、にかかっている。書くことは永遠と続く。どこかに迷い込まないように。また、今日も。