どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

わたしはわたしが幸せになることを妨げている

 わたしが幸せになることを妨げているのは、自分である。わたしはわたしが楽しく過ごすことをしようとしていない。変に禁欲的、自罰的なのだ。いろんなくだらなさが、わたしを楽しみから遠ざけている。なんでそうしているのかはわからないけれど、たぶん、そうだ。価値観とか性格とかいろんな要素からそうしているのかもしれない。わたしはわたしを幸せにしようとしていない。
 わたしはわたしを否定する人を是とするために、自分を無能にしていた。そのことのくだらなさを、すごく今、噛み締めている。
 人と人とは、そんなに変わらない。ちょっとした違いの中に生きているだけで、その人と人の間に思いやりがあるか、愛があるか、敬意があるか、それだけなのだと思う。わたしは、すべての人に敬意を持つべきだと思って生きてきたが、そして今でもそう思うが、そうではない人というのもいるのだ。そういう人を無理して、自分を壊してまで肯定することはないのだと思う。
 わたしは、捉われていた。
 そんなに変わらない人たちが、何か違うつもりで何かをしているに過ぎない。誰かに否定されたからといって、わたしが、この世界の全ての人に否定されるべき、とは限らない、というか、そんな人はこの世界にいない。
 自分の価値を自分で信じることができないと、人はオカシクなる。誰も信じることができなくなる。そうやって、わたしは壊れていったのだと思う。そうしてわたしの無能は成った。
 わたしという人間に敬意を持ってくれる人、いるはず。わたしに思いやってくれる人が、いるはず。愛を注いでくれる人がいるはず。そういう人を見るべきで、わたしを否定する人のことを思い浮かべていても仕方ない。その人たちは、わたしのことには興味がないし、そもそもよく知らずに否定のための否定をしているに過ぎない。
 わたしは、わたしのことを考えるべきである。わたしは、今の自分を生きるべきである。わたしは、わたしである。わたしをするのはわたしだけである。わたしのことを考えるのも、わたしだけかもしれない。わたしのしたことにわたしは責任を持つ。わたしの現状に、わたしは責任と敬意を持っている。こうあるべくしてこうある。そのことをふまえて、わたしはわたしを為す。
 生きていることを楽しめないと、人は生きた心地がしない。そんな日々が十何年つづいた。ずっと、自分を誤魔化していた気がする。自分を大切にしていなかった。わたしという楽しみを、そして価値を、人に委ねてしまってた。そうして、わたしは自分を価値のないものとしていた。わたしはわたしを楽しめないと思っていた。楽しんではいけないと思っていた。そんな価値ないと思ってた。そうやって生きる価値を逸してた。生きていることを楽しめなかった。
 人は生きていることに価値がある。人は生きていることを楽しむことに価値がある。楽しむから生きている。そして、その楽しみに普遍性なんてない。人の迷惑にならないように、人それぞれが楽しんだらいい。わたしもそうする。当然にそうする。人それぞれに、そんなに違いはないって思う。ちょっとしたことで、違いがあるように見えているだけ。だからこそ、どんな人にも敬意を持つべき。
 楽しもうと思うのなら、人は楽しめる。何が自分を抑え込んでいるのか、それを今、わたしは注視している。
 わたしは幸せでありたい。幸せでいていいんだ、と思ってる。そうあることが、まずは一歩目。
 わたしは自分の気持ちを言語化することができて、良かった。このブログに書いたようなことが、人に伝わっていたら、そんなにうれしいことはないです。書いているとき、書くことを考えているときには、いろんなことを忘れることができるから。それが、今のわたしの幸せなのかもしれない、です。