どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

気に入られることに、折り合いをつける その4

 世の中の人を敵として扱うことを前提としている節があって。それを、みんなとりあえずは味方なんだ、って思えたら、たぶん今よりずっと生きやすくなる。
 たぶん、性善説とかそういう話ではない。
 例えば、病院の看護師さんとか医師とか、それから、仕事として接するような人には、とりあえず自分の味方、というスタンスで接することができる。よくしてくれるはず、という前提で受け取ることができるし、自分もそう接する。そういう人が自分によくない人だったとしても、まぁ、多少の誤差はあるにせよ、こういうこともあるよなー、つぎ! つぎ! という気持ちになれる。しょうがないか、って。
 ニュートラルになんの利害関係もない人には、そう接することは難しい。なんだかとても現金な人間というか、お金という担保があると、途端に人と接しやすくなる。対価を払ってるんだから、一応はきちんとしてくれるはず、という安心感を持って、こころに余裕がある感じ。逆に多少の嫌なことにも目をつぶれる。よっぽどのことがなければ、水に流すというか、しょうがないと思える。
 なんだか人を区別しているような気持ちになって、自分で自分が気持ち悪い。
 自分に害をもたらさないであろう人にさえも、ぼくは構えてしまう。基本的に人は敵であって、そうではない人を条件付きに用意している感じ。気心の知れた友達にさえも、ちょっと嫌な感じの行動をされると敵認定してしまいがち。というか、この10年間はほとんどまともに友達付き合いというのをできていない。
 裏切られて傷つく恐怖とか、人を見下しているとか、そういうことでもないと思う。自分によくしてくれるとは限らない人に対する警戒心が過剰なのだろうな、という自分の想像はある。なんというか、人と接するのに、余裕がない感じ。
 いい人もいれば、そうではない人もいるということはもちろん概念としてはわかる。これだけ人がいたら、いろんな人がいるということも。街に出ると、いろんな人がそれぞれに家があって友達付き合いして仕事して恋愛している、という現実が怖い。不気味に見えてしまっている。
 そういう人に危害を加えられるというような怖さでもない。知らんぷりしていれば、会話することも、こちらを意識されることもすることもないことはわかっている。多少、何か言われたところで大したことではないこともわかっている。自転車で事故しても、きちんとしていたら、大丈夫、なんとかなる、という感覚もある。普通の人がきっとそうであるように。
 でも、味方と感じることはできない。まぁ、当たり前といえば当たり前。当然、敵でもない。当たり前。なんでもない人で、この世界は埋め尽くされている。当たり前。
 出会った人を、敵として扱っている。以前に書いた、競争の相手、という意味ではない。自分に悪意・敵意を持つかもしれない人、くらいの感覚。そういう気持ちがうっすらと人と接するたびにある。
 気心のしれた友達には、基本的には、安心しているつもり。でも、いつかそうではなくなるのではないか、という疑心暗鬼はいつもある。そういうものだとも思う。いつまでも友人関係がずっと継続されるということは、そういうこともあるのだろうけど、そうでないこともあることも理解している。かといっておべっか使ったり、おだてたり、機嫌を取ったりということもしない。そういう競争には参加するつもりが、たぶんない。そうではなくなったら、そういうものだ、と思えるということ。
 ここまでに矛盾を感じたかもしれない。
 その3に書いたように様々な競争には参加しない傾向にある。けれど、人を敵と思っている(そして、それを不具合と思う)。それは矛盾しない。敵と思いつつも、友情は友情だし、恋愛は恋愛のはずだから。
 敵という言い方がややこしくて、味方ではない人、って感じ。味方ではないニュートラルな人を過剰に警戒して悪意を持っていると解釈してしまう。
 問題はその過程で人を敵と思うことがベースにあることだ。味方に感じるのなら、きっと、生きやすいだろうと想像するけど、そうはなっていない。
 競争する人が、いろんな人を敵として認定するのならわかりやすいのだけど。特に利害関係もない人のことを、悪意を持っている、あるいは持つようになるかもしれない、と構えることは、人間関係において不具合としか言いようがない。人の悪意を前提にしてしまっていることが問題。
 そう解釈していること、そう捉えていることが、問題なのだ。
 自分自身が、悪意を心根に持っている人間なのかな、と思い込んでしまう。でも、たぶん、そんなことはない。善意だけの人だとは思えないが、それなりに人に好かれ、あるいは愛され、生きてきたはず。
 人は悪意を持ってそれを自分に向けてくるのだ、という前提を持って生きることに、疲れた。このままでは生きていけない。味方であることを前提としてそれに裏切られることをなんとも思わない生き方のほうが、生きやすいだろうと思う。敵として接して、良いことなんて何もない。そのハードルを超えて味方になる人は一人もいないから。
 すべて捉え方の問題なのだ。そういう前提として人を解釈している。
 たぶん、成長してくる過程で、トラウマがある。でも、それは、それをトラウマとして解釈することによって、そして、人を敵として扱うことを前提として接することで得をすることがあるのではないか。そうしたいから、それをトラウマとして採用し、人を敵として解釈することを前提としてしまう。
 競争に参加しないことで、私はたぶん、虐められていた。自分ではそう解釈していなかったけれど。あれは、虐めだった。その過程でたくさん人に悪意を持たれたし、裏切られた。真意をねじ曲げられて解釈されたり、一部を切り取って拡大解釈されて、それが自分の本性であるかのように言説された。そういうことに、辟易していた。人間をくだらないと思っていた。そういう人のことを尊重しつつも、人と関わるのは止そうと思ったのだと思う。そうやって、人と関わることを止めるために、人を敵という前提で接するようになったのでは。
 人との接触を少なくすることを自分に許すためにはそれがたぶん一番手っ取り早い。人を肯定的に捉えるより、否定的に捉えた方が、人を否定しやすい。当たり前だけれど。
 競争には参加しないけれど、人と接することを厭んでいては、仕方ない。私は本質的には人を肯定していたい。そのギャップにずっと苦しんでいたような気がする。そこに、自分の矛盾点があった。人を肯定していたいのに、敵であることを前提に捉えてしまう自分に苦しんでいた。友達たくさん競争に参加するのでもなく、それでも、人と接することを楽しむことはできる。友達と接することは楽しいことだから。そのことを否定しても仕方がない。競争に参加しないことにバイアスがかかりすぎていたのか。あまりにも自分にとってトラウマが過酷だったのか。自分を見失っていたような気がする。
 わたしは自分が生きていることを、肯定し始めている。それと同時に、他者をも肯定していたかったし、していたい、ということにも気がついた。そして、そこにある自分の心の矛盾にも。人生として、あまり、人との競争に参加しないたちで、その上で、人を肯定していたい。他者を否定することの心苦しさが、自分を病ませていた。他者を否定したくない。その上で、人を否定する代わりに自分を否定していた。
 誰も、正しいなんてことはない。ただ、正しいとされることがあるだけ。
 自分を否定したところで、自分が正しくなるわけではなかった。ただ、自分が自分を失っていくというだけだった。他者に支配されて。人に自分の解釈を与えて。人にコントロールさせていた。
 そこに、競争に参加しないことの矛盾を抱えていた。わたしは、人に否定されることの、あるいはされないことの競争に乗ってしまっていた。自分を否定することによって。
 自分を否定したからといって、なにも良いことはない。ただただ、意味のない自己憐憫が積もるだけである。卑屈は加速する。しかもそれは、自分の手によって。
 人を肯定するために、自分を否定することの、愚かさ、恐ろしさ。そこに陥っていた。そうしても、誰にも良いことはない。ただただ、自分が孤立していくだけだった。
 人を肯定する前に、自分を肯定する。自分を闇雲に否定するようになったのは、自分を否定する人が、なぜそうするのか理解できなかったからだ。その理屈がわからなかったからだ。自分は無条件に否定されるべき人間なのだと思い込んでしまっていた。ナチュラルになんの理屈もなく否定されるべき人間で、自分で自分を否定することに、疑問を持てなかった。そういう風にわたしはできていた。
 人がわたしを否定する理由はなんとなくわかった。多分いろんな理由からだ。それは、多くの人がそうであるように。人に否定されたからといって、自分を否定することはない。卑屈になる必要はもっとない。
 ここまで書いて、やっと、人をきちんと肯定できるかもしれない、と思えている。人を敵として見なす必要はないかもしれないと思えている。だって、わたしの中の、人を肯定したいという気持ちは、自分を否定してしまうくらいに強いのだから。たぶん、揺るがない。人を肯定するように、自分を肯定したらいい。そう考えたら、こんなに簡単なことはない。だって、わたしは、わたしを扱っている。わたしがわたしであることを、許しているのは、他ならぬ、わたしである。わたし以外に、わたしを直接に形作り、責任を持つ人は、いないのだから。
 要するに、自分を否定しているから、自分に接する人をも、否定せざるを得なかったのだろう。人を肯定していたいのにも関わらず。そのギャップに苦しんだ10年間だった。ぼくは人間を肯定したいようにするし、それは、自分をも、である。これで、心地よく生きていける。

気に入られることに、折り合いをつける その1
気に入られることに、折り合いをつける その2
気に入られることに、折り合いをつける その3