どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

気に入られることに、折り合いをつける その3

 人に気に入られることについて、最近は考えていて。
 自分でも気がつかないうちに人として扱われないように自分はしてしまっているのかな、と思った。
 そうすると、いいことがあるから、きっとそうしているんだと思うけど。
 というか、まずは悩みとして人として扱ってもらえない、ということがあって。でも、それは、自分からそういう風に仕向けている部分もあるんじゃないか、と。
 特に思春期以降、人として扱われなくなることが多くなった。ほぼいじめみたいにされたり、腫れ物に触るように扱われたり。私を好きだという人にさえも、人として扱ってもらえないことが多かった。
 そういうことに自分はずっと苦しんでいたし、それが自分の自己肯定感の低さにつながっていると思う。
 人に気に入ってもらえたとしても、そのことすら人々は利用するし、簡単に思惑に翻弄される。
 “気に入る”ってなんなんだろうって、考えたりした。
 気に入るからといって、それだけで肯定的なわけではなくて、それに人を人として扱わないことが乗っかると、本当に非道いことになる。好意の気持ちを武器にして振り回すと、大抵の人間は壊れる。ぼくは、壊れた。
 気に入っているんだから、という剣は、少なくとも、僕にとってはとても鋭かった。
 それで、冒頭の話に戻します。
 人として扱われないように、自分はしてしまっているのかもしれない。
 それも、無意識に。
 さらに繙いていくと、こういうことだ、とわかった。ぼくは、人との競争に参加しないように生きている。何も、角が立たないようにとか、平穏に生きたいとか、そういうことでもなく、人の作る流れというか、競争みたいなものに、そもそも参加していない。けっこう人生の早い段階からそうだったのではないかと思う。そういう性格なのだ。
 つまり、人との魅力競争とか、頭良い競争とか、モテたい競争とか、友達の数競争とか、なんか、そういうことに参加しない傾向にある。
 生きてたら、なんとなく進学校に通うことになったり、なんとなくモテたりはしたのだけど、それも、そういう競争に参加した結果というよりは、自分のしたいことをしていたら、自然とそうなっていた、という類のことで、本当にたまたまだと思う。今も、たまたま生きているし。
 周りにいる人より秀でていたらあの子を振り向かせられる、とか、受験戦争に勝てるとか、あいつをだし抜けるとか、思ったことがない。
 変にマイペースなのだと思う。変に無欲なのかもしれない。たまたま結果が伴ったことがあったというだけで、なんとなく、そんな感じで生きてきたのではないか。
 人生の中で友達を作ろうとしたこともない。そばにいた人とたまたま仲良くなってきたように思う。たまたま気の合った人がいたし、それだけなのだ。だからこそ、縁は尊いのだけど。
 競争に参加しない自分のことを、不気味に思った人がいたとしてもおかしくはない、と今では思う。合コンにも行かない。モテたいとも思わない。極論を言えば、人にどう思われてもいいや、って思っていたと思う。嫌われるのもどうでもいいや、とか。
 “そういう人”として捉えてくれる人が多い場では、生きやすかった。
 モテようとしない、勉強しない、魅力的であろうとしない、そういう人間のことを、人間扱いしない人がいたとしても、おかしくはない。特に思春期には。
 つまり、自分から、自分を人として扱わなくても構わない、という風に向けていたと言えてしまいそう。そういう扱いもアリ、としていたのは、むしろ自分だった。
 それで人として扱ってもらえない、って悩むのは、変だね。だって、人から見たら、不気味だと思うだろうし。嫌なやつになっていても、全然変じゃなかったと思うもの。今だったら、そう思える。
 そういう人には、ぼくは人生を楽しんでいないように見えただろう。きっと、気持ち悪かったんじゃないか。自分としては、自分の人生をそれなりに楽しんではいたのだけど。人生がそもそも違うのだ。
 人に気に入られようとしていない、ってのも、同じことだと思う。その一端というか。人に好かれても、基本的にはどうでもいいと思うしね。だって、そもそもそれを目指していないから。きちんと近くにいようして自分のことを知ってくれている人のことは、ぼくは尊重するけれど、よく知らない人のことは、やっぱり、その場では受け入れられない。恋愛レースに参加していなかった。ハナからエントリーしてない。それでも、なんか恋愛は少しはしてきたんだから、運が良かった。そのくらいで、充分だと思うし。
 お金を稼ぐレースにも、異性を射止めようレースにも、面白い人であーるレースにも、目立ちたくてしょうがなーいレースにも、友達いっぱいいないといけないレースにも、参加してない。ただ、なんとなくお金があったらいいなー、とか、好きになった人と一緒にいるのはうれしいなー、とか、自分が楽しめることをしてたら人が笑ってた、とか、目立ってもいいことないなー、とか、そういう程度だと思う。それでも、たぶん、充分に、楽しい。
 というわけで、人に、人として扱われない理由もわかったし、つまり、自己肯定感の低さがどこからきたのか分かったし、人に気に入られることに罪悪感を持つことにもなんか結論が出た気がする。
 たぶん、これから出会う人には、そういうレースに参加してないし、性格的にするつもりもない、ということを納得してもらうしかない。レースに参加しないと生きていられない人には申し訳ないけど、その土俵には乗ってません、ということを説明していかないと、たぶん、これから先も生きづらくなる。
 というか、それがわかったら、自分のいろんなことが見えてきて、今までより、自分のこと、特に不具合と思ってたことも、実際はそうでもないかもしれないなー、と思える。そういう方針で生きていけば、そういう人として生きていけるようにしていけば、生きていかれる、って感じ。まぁ、たぶん、社会適合者ギリギリの人としてだけど。
 出家でもしたら、って、母に言われました。というオチです。
 あとは、世の中の人をみんな敵だと思っているのを、味方である、という風にすり替えられたら、もっともっと、生きやすくなるんじゃないかと思うんだけど、そのことはまた追々考えていきます。何か思いついたら、また文章を書くかもしれないし、何も書かないかもしれない。

気に入られることに、折り合いをつける その1
気に入られることに、折り合いをつける その2
気に入られることに、折り合いをつける その4