どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

普通とか

 普通ってなんなんだろう。常識って、なんなんだろう。
 生きていると、ときどき、常識が怖くなる。どこかに自分の感知していない常識というのがあって、それで世界が覆い尽くされていて、私はそこから取り残されていて、あなたは変だ、ということを突きつけられているような気がする。社会の持っている、そういう常識について、あるいは普通の持つ圧力みたいなものって、無言で当たり前を突きつけてくる。今、この世界に生きていたら、当たり前でしょう、ということを否応なしに突きつけてくる。それは、好むと好まざるとに関わらず、ある人にはあるし、ない人にはない。
 どうでもいいことは多い。自分のこだわりというものがあることだってある。頓着しない場合、常識に従っていた方が、普通に合わせていた方が無難なのだろう。多分、世界はそうなっている。自分のこだわりがあることに関しては、そのこだわりを押し通すことだってできるし、やはり常識に、普通に寄せることだってできる。癪だけど、自分のこだわりでさえ、人にわかるように変えなくてはいけないことがあって、私はつらいし、しんどくなってしまう。
 そして、どうでもいいことは多い。私は、他者を軽んじているところがあるのかもしれない。そうやってくる弊害は、いろいろとある。人と相入れなくなってしまったりする。簡単に人とうまくいかなくなってしまう。そうやって、私はどんどん孤独になっていったのだった。どうでもいい事は、常識に従っていればいい、そのテーゼでさえ、私は守ることができていない。どうでもいいからである。自分の、及ぶ考えが狭い、浅い。だからこそ、普通でいるべきなのだけど、そうはいかず、どうしてもお座なりになってしまう。そうやって、ちょっと変な人間ができているのだと思う。
 どうでもいいことこそ、必死になって普通であろうとしなくてはいけない。その矛盾。そこに手を抜かないのが、普通と言われる人であって、私は普通ではないのかもしれない。こだわりがあるわけではない。たぶん。こだわりがある部分は自信がある。ここはこう感じ取って欲しいだとか、どうでもいいのとは違う。
 問題はどうでもいいことなのだ。いかに無難にするか。いかに普通に終わらせるか。こだわりがあるわけではなくて、こだわりがなさ過ぎるのだ。どうでもいいのだ。いろんなことが。そういう自分に辟易したりして、反省したりして、でも、どうにもならないことだったりする。自分を芯から変えないと、どうにもならないことかもしれない。
 普通が怖い。常識が怖い。そうやって、理解されないことが怖い。理解しようともしてもらえないことが怖い。諦められるのが怖い。興味を失われるのが怖い。異端扱いされるのが怖い。だけど、どうでもいいことを丁寧に扱うことができない。そういうこだわりなのかもしれない。
 たぶん、人の中でうまく立ち回っていくのにはコツがあって、それを押さえないとうまくいかない。それは一人ひとり違っていて、自分の不具合とか、特徴とか、考え方とか、いろんな要素によって成っている。だから、王道というものがない。それを経験則として把握して、うまくやっていけるようにやっていくということなのだろう。けれど。
 私は疲れてしまった。人の中でうまくやれるようにやっていくことに。大抵のことは、わけがわからないことだった。好かれることもあったけれど、嫌われることもあった。その急勾配を、私はどうでもいいと思ってしまっている。人との関係とか、人と仲良くするであるとか、そういうことが。
 普通はこうする、ということの普通って、許されることと許されないこととあって、その場でも、その時代でも、空気でも状況でも、いろんな条件によって変わる。たぶん、ぼんやり生きている自分には、生きていくのが大変なのだと思う。自分なりに生きていくことでしか、自分を保つことができない。そして、自分なりに生きることが厄介なのだと思う。人にはいろいろ都合がある。あるのに、興味半ばで理解しようとしてくれず、排除する人たちのことは、やっぱり好きにもなれないし、興味も湧かないでいる。
 きっと、この世界のどこかには、私のことをわかってくれる人がいる、そう思ってなんとか生き凌いでいる。そういう人と生きづらさを分かち合うために、私は書くのかもしれなかった。
 世界の中で、生きているって、不思議だ、とときどき思うのだった。