どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人間は。

 人間が、どういったものなのか、わたしは知りたい。ずっと、そう思ってきたような気がする。そう思っていろんなことをしたり、あるいはしないことにしてきたような気がする。
 人間のつくったものでそれがわかる場合もあるし、人との触れ合いでわかることもある。
 人生にはどうにもならないことが起こり得る。なぜこんな扱いを受けるのか、ということも起こる。たぶん、誰にでもそうなる可能性はあって。それがたまたま今の自分であった、その状況における、その時の自分であった、ということ。
 それさえもただ偶然ではなくて、必然とそうなっているのかもしれない、と思う。よくわからない。そうなることを自分が誘発しているような気がする。肯定的なことも、悲観するべきことにさえも。
 確率論みたいな話にもなりうるし、ただそれは縁であるだけということもできそうなのだ。
 何かが起きた時に、それを何の所為にするのかさえ、誰にも決められることではない。神様のせーにする人もいる。どうにもならないとただ嘆く人もいる。抗う人もある。抗ったところでどうにもならないこともある。
 人間は得体が知れない、と言ってしまったところで、何かが解かるというわけでもない。だけれど、何かの志向を持っていることは確かなようだ。それはあるいは思考であるし、嗜好である。それを意志という人もいる。
 人間には、どんなことも起こりうる。およそ考えられることは、すべて。どんな人間もいるし、不思議と思えることもある。でも、そういうことが、実際にある。
 わたしが人間に興味を持つのはなぜなのか。自分でもよくわからない。自分が生き難いと感じているからかもしれない。人間は、この世界のどこにでもいて、なんでもしていて、そして、なにかしらを思っている。
 一心不乱な人もいれば、怠惰に生きる人もいる。そして、その中庸の人がほとんどだ。人を傷つけることを厭わない人も、自分の利害だけを考える人も。自分さえ良ければいいという人も。
 自分が、自分をどう思うかが、きっと大事なことなのだ。それが人によってもたらされることもあるから、わたしは人に興味を持っているのだろう。
 世界がわたし一人なら、人間のことを考えたりはしない。自分のことを考えるだけだろう。自分というものさえ感じないかもしれない。自我さえないかもしれない。
 人は、人を助けることもある。そうはしないこともある。
 人は、復讐するかもしれない。人は、人を愛するかもしれない。
 人のすることに、色はないのかもしれない。ただ、価値があるようにみえるだけなのだ。
 生きていることにも、死ぬことにも、意味はないかもしれない。それでも生きるのは、生命が生命自体によって生きているからだ。生命の連綿によって、わたしは生まれ、そして、死んでいく。
 生きていることの歓びが、あるはず。そうしている人を知っているような気がするから。
 人間は、うむ。人間は、つくる。人間は、あたえる。人間は、あいする。
 人間は。