どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

滝を登る二匹の鯉は、やがて龍となる

 じぶんのことを、不甲斐なく思うこともできるだろうし、
 じぶんのことを誇らしく思うことだってできるのだろう。
 どっちだって、簡単なこと。
 そうしようと思いさえすれば。
 そうすることをじぶんに許すのならば。
 じぶんみたいなもんが、と思うことは
 じぶんを否定しているようでいて、
 わたしを信じている人さえも否定してしまっている。
 そんな人間に何かを任せるわけがない。
 かといって、自分がすることにことさらに自信を持てているというわけでもない。
 やってみなくてはわからない。
 自分にできることをそれをしないうちに知っている人なんているだろうか。
 人を信じることもできず、じぶんを信じることもできない。
 自分の力を発揮しているとは言えなくて、
 だって、まだできるのだから。
 力を持て余したまま、ここを去ることは恐ろしいことだ。
 まだ自分はやれると知っているのに、
 人もわたしができるだろうと思っているのに、
 まだできるはずなのに、そうしないままにわたしはじぶんを失いつつある。
 誰といたとしても、それは勇気ではない。
 誰に認められたとしても、それは効果がないだろう。
 誰に認められたとしても、そこにりゆうはない。
 わたしがじぶんで受け入れなくてはならない。
 じぶんのすることを。
 なんだってできるわけではない。
 だけれど、わたしが感じているこの感覚は、わたしにとっての真実。
 じぶんの感覚に鋭敏である限りは、わたしはきっと、間違えない。
 愛することの普遍を、わたしは知っている。
 こいする気持ちは、わたしを加速させる。
 わたしは、わたしを受け入れる。どんなじぶんであっても。
 じぶんにできることを、最大効果に成し遂げる。
 そうしたなら、きっと、しあわせに生を全うできるだろう。
 ただ、快楽に溺れるというわけでもなく、
 じぶんのするべきことをするために、わたしは、生きている。
 そのために、死ななかった。
 まだ、道の先はある。
 感覚は言う。
 人を求めろ。人を愛せ。人を嗾けろ。
 それによって
 人に求められ、人に愛され、人に嗾けられるだろう。
 滝を登る二匹のこいは、やがてりゅうとなる。