どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

生きる歓び

 私が生きているということのすべてが、私の生の歓びに直結している。私は、簡単に失われるだろう。私の感じてきた歓びとともに。私が生きている限り、それは私の体に保存され、いつか思い返すことがあるかもしれない。ふと、生きるという歓びを噛み締めるかもしれない。何か不幸があったときに、それが支えとなって生きることを志向するかもしれない。いろんなことを土台として、私は生きている。
 それは、性の悦びかもしれないし、書きたいという欲望かもしれない。食べるということだってまた歓びになっているし、寝ることもまたそうかもしれない。人と話し、ふれあい、笑い合うことだって、生きる歓びかも知れない。真っ赤な夕日を見つめているという心持ち、心の余裕、美しいと思う心、そういうことが生きる歓びにつながるかも知れない。
 生きることが終わったら、死もまた死んでしまう。死んでしまったら、何もかも失われる。生きていたということは、残ることもあれば、失われることもある。その人が表現したことは、残るかもしれない。生きているということは、半ば表現することでもあるから、その人に近しい人にとっては、その表現こそが、その人そのものとなる。何もかもが表現となる。些細なことも、仰々しいことも。本当にさまざまなことがまた別の人の生きるの中に受け継がれていく。
 生きる歓びは、どこにも保存されない。どこかに溜まっていけばいいのだけど。生きて、歓びを感じ、それを表現し、それが受け継がれない限り、あるいは、宝物として尊重されない限り、失われていく。死とともに。私の感じた全ての生きる歓びを、この世界のどこかに保存しておくことはできない。それは、今、私の身体の中にあるのであって、それを表現しなければ、それを人に伝えることはかなわない。
 連綿と受け継がれてきた、途方もない生きるという歓び。優れたものもそうでないものも、私の生きるを今日も支えている。先人たちの生きる歓びと、私自身の生きる歓びがない混ぜになって、私の生きるを支えている。生きる歓びを感じることができるのは、私が生きているからだ。生そのものが、私の生きるを支えている。生という内燃が、私を動かしている。
 私は、今日も表現している。生きているという歓びを。そうとは意識せずに。どんなに憂鬱だとしても、それは少なからずある。生きている限りは。それを大袈裟に感じることもできるし、些細なことに歓びを感じ、あるいは、自分を慰めることもできるかもしれない。感じることを、諦めてはいけない。どんな絶望にも、生きる歓びは隠れている。その瞬間を生きている限り、生きる歓びはあるのだ。生きているのだから。
 それは、言葉かもしれない。音楽かもしれない。舞踏かもしれない。芝居かもしれない。いろんな方法で人類はそれを残してきた。誰かの生きる歓びが、また別の誰かの生きる歓びとなって。私たちがいなくなると同時にすべては簡単に失われてしまうからこそ、表現としての尊さがそこにはある。
 今、生きていることに勝る歓びはない。私が生きていることのすべてが、私の生きる歓びに直結している。どんな行動も、どんな想いも、どんないたわりも、どんな愛嬌も、すべてが生きるという歓びそのものである。なにを以って歓ぶかというのが、その人自身である。私は、生きる歓びというパーツで生きている。その寄り集まりが私という人間である。だから、すべての人間は尊いのだ。それを表現している、否応なく表現している、すべての人間はもれなく尊いのだ。そのことを忘れてはいけない。
 私は、表現したいと思う。私の感じてきた、生きる歓びというものを。できるだけ、人に伝わるかたちで。そうやって、それがまた別の人の生きる歓びとなることを願う。