どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

書くという自分を知ること

 人と接してみなくては、自分がどんなところに立っているのかも、よくわからない。自分がどこに立っているのかなんてわからなくたって、悠々と自分は生きていけそうな気はする。少なくとも、書くことに関しては。書かなくても生きていけることははっきりしているし、書いたところで生きられるというわけでもない。
 でも、書いた方が楽しく生きることができることは確かで。
 ここ数週間のうちに、自分が書くということについて人に言葉をいただくことが多かった。書いたものについてだけではなくて、書くということも含めて。
 私は、明らかに書くことによってしか自分を表現できなかった。生きるために書いてきた部分もあったのかもしれない。少なくとも、自分を知るために、自分を知らしめるために書いていたようなところがあった。必然として書いていたような気がするし、いや、そうでもないのかもしれない。そんなに切実として書いていたような気もしないのだけど、でも、やっぱり他の人とは違った何かを抱えていたことは確かだと思う。
 多くの人にとってもそうだろうと思うけれど、自分にとっては当たり前で自然なことは、他の人にとってもそうであろうと錯覚してしまうことがある。この世界の誰もが、自分と同じように感じ、自分と同じように表現できる、と思い込んでしまっていることがある。それは明らかに錯覚なのだけど。皆が私と同じように劣っているというわけでもないし、同じように自然というわけでもない。
 そして、自分自身のことは、誰とも接しない場合、ほとんどわからない。自分をわかろう、わかろうと努めるとしても、やっぱりわからない。全然わからない。自分というものがそもそもないみたいにわからない。だって自分というのはそのくらいに自然だから。当たり前のように考え、当たり前のように書く。
 でも、そのことはそれほど普通のことでもないんだな、ということがこの数週間のうちにわかってきた。それは別に優れているということではなくて、自分の持っている感覚とか、感じることとか、感じ方とか、ものを受信した時にどういう気持ちになるのだろうか、ということについての何もかもが、それだけで自分の個性であって。ただそういうものがあるというだけだ。そして、考えて、それを文章として表すことについて、それさえも自分にとっては普通のことだった。バードが2コーラスのアドリブをレコードに吹き込むみたいに簡単にやすやすと自分は書いていたかもしれない(当たり前だけど、バードみたいに優れていると言いたいわけではもちろんない)。
 別に自分の文章に自信があるというわけでもないし、それによって誰かに何かを伝えられていたとも思っていない。少なくともそれに成功したという形跡はないし、感知していない。何かを受け取ったと示さなくては、それが私にわかるということも永遠にない。ただ、いつの日にか届くべき人に届いたらいい、そのくらいにしか思っていなかった。
 全くの個人的なことばかり書いても、それで人に訴えるものができるとは到底思えない。それは当たり前のこと。人に何かを伝えようともしていない。[掌編]を書いても、[自問字答]を書いても、それによってどうなりたいということもない。人と比べるということもなく、書くことによって人と接することを拒んでいたように思う。というか、自分が書くということで人と関わることなんてあるのだろうか、なんて全く思い浮かびもしなかった。本当にそのくらい自然のことだった。ブログを書いたから出会った人というのはいても、その人が私のブログを読み続けるかというとそうでもないし、そのままいつの間にかいなくなってしまうことがほとんどだから。だって、その繋がりは、その程度でしかないから。ただ書いたものを読んだ、その範囲でしかない。それに、この程度の文章で何がわかるというのだろう。音楽家が音をもって語るように、僕は言葉をもって語るか、というとそうではない。
 そこには僕の書くことに対する甘えがある。人と比べて自分を値踏みしないと。かといって読んで面白くないものは読まないし、それは人にとっても自分の書いたものに対して同じだろう。相変わらず書くことについての自分の立ち位置がわからないのは、当たり前のことだ。わかろうともしていないのだから。
 要は、怖いのだ。だから甘えるのだ。自分が書くことについてどうしようもなく劣っていると、書いたものが糧にならないくらいにしょうもないものだと、何かを伝える能力があるわけでもないと、それが通用しない事実を。自覚することが怖いのだ。
 人が書いたものと比べる必要はないけれど、自分がどういうものを書けているのかは、知っている必要がある。どのくらい伝わるものなのかも。読んだ人が、どういう気持ちになっているのかも。誠実に読んでくれるような人がいたらいいのに。容赦無く「わからない」と言ってくれる人はこの文章群にはいない。それはこの文章たちにとってとても不幸なことだ。そうしているのは、自分なのだ。何によってそうなってしまっているのかわからないでいる。
 なんだか前にもこういったことを書いたような気がしてる。なんども足掻いている。どこに行ったら自分の居場所があるのかもわからない。今いる場所は十二分に自分の場所になりうるのかもしれないし、もうなっているのかもしれない。
 だけど。
 やっぱり、書くことは捨てられない。これなくして生きることは考えられない。
 だったら。
 逃げずに書くべきだ。自分の人格として書くのではなく。私という人間に興味のある人にだけ向けるのでもなく。
 ただ、文章を読むという喜びを感化するような。バードは、多くの人たちに対してけしかけた。本当に、バーに行って一杯引っ掛けるみたいに。そうして逝ってしまった。
 考えの尽くすことが、その人の為しうる技術をふんだんに詰め込んだものが、極限に達していたから、そうできたのだ、バードには。いや、すべての芸術家たちは。
 その人たちは、逃げなかった。恐怖に勝ったのだ。私は、そのことがとてつもない喜びを連れてくると知っている。それは、昨日も書いた通り。ここまで来たのだ。乗り掛かった船だ。僕は、やっぱり、書くべきなんだと思う。
 ただ虚空に書くことはできる。文章に対して何かを賭して、書く必要がある。そうしないともう、書くことはできないんじゃないか。