どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

言葉を書かなくてはいられない夜

 なんだか、文章を書かずにはいられない夜ってのがあって、今夜はそういう時みたい。
 人の役に立てている感覚ってのは、気持ちがいいものだ。それによって自分が生きることができるというのは、格別のもののようにおもう。こんな気持ちになるなんて、本当に生きていて良かったとおもう。こんな気持ちになれる自分を、わたしは今までに知らなかった。仕事を始めて約半年、社員になって3ヶ月くらいが過ぎた。
 何をやるのにも不安であるけれど、この不安を忘れてしまったら、わたしは仕事を任せてもらえなくなるのだろう。心配で心配で確認を尽くすくらいでちょうどいい。ここまでにありとあらゆる失敗をしてきたけれど、それでも、仕事を任せてもらえているのだから、わたしはとても運がいいのだとおもう。
 しゃべることがができていることも含めて、なんだか不思議な気持ちになる。こんなに人の役に立てる自分を、わたしは知らなかった。いっぱしの社会人と言えるのかはよくわからない。まだ、恥を書く機会はたくさんありそうだ。現に今日もかいた。
 自分にできることが、もう少しはっきりするといいのだけど。まだ手探りでやっていることが多い。何をするのにも不安だ、というのはそういうこと。これは確実にできる、ということはほとんどないとおもう。それでは、技術を持っているとは言えない。
 間違えることを恐れている限り、間違えることを愚かだと思っている限り、わたしにはいい仕事はできないだろう。我を忘れて、自分をどう思われようが構わないと思えているときに、いい仕事ができているようにおもう。それをすることにだけ集中しているときにはいい仕事ができている。できないことに開き直るのではなく。することに、躊躇してはならない。どう思われようが、できるときはできるし、できないときにはできない。恐れることで自分の中に自分から隙を作ることの方が、わたしを失敗させる。
 「言葉」を扱えるというのが、自分の強みだとおもう。それはコミュニケーションも含めて。こうしますよ、こうですよね、とか、こうしたいとか、こうするべきだ、とか、内部の言葉と表現としての言葉があるから、なんとかやっていけるんじゃないか、とおもう。この人がこういう言い方をするのは、こういうことだからだ、とか、人への配慮とか思いやりとか察したりすることも、仕事を遂行していくことももちろん、言葉によって駆動している。
 そうできなかったら、たぶん、もうわたしは潰れていたとおもう。
 この十年は無駄ではなかった。それによって得たものはたくさんあった。今は本当にそう感じている。失ったものもたくさんあったのだけど。それもまた運命だとおもう。運命であることも含めてどうでもいいことだ。
 生きていることが、面白くて仕方ない。こんな気持ちになる自分を知らなかった。それは、ここまでの道のりを綱渡りにでもなんとか誠実に動いてきたからだ。こんな気持ちを直接共有できる人があったらよかったのだけど、そんな人がいたなら、この文章は書いていなくて、つまり、やりどころのない気持ちを言葉にしている今のこの文章を受け取っているあなたにだけは、そういうことも人生にはあるのだ、と知ってもらいたいのだけど、まぁ。
 それが伝わらないということもわたしは知っている。喋れば喋るほど人に何かを伝えることは困難で、書けば書くほどに誤解を産むのが文章を書くということだから。
 自分がやるのが合理的だと思えるのなら、なんだってできる気がする。そう、なんだって。最期まで自分にとっての「美」を追求し続けられたなら、きっとこの人生は、いいものになる。そう思う。