どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

愛することについての一考察

 みんな何かにかこつけて誰を愛していようとするけれど、本当には相手のこともそんなに知らず、ただ自分を納得させることのできる何かを持っている人に、心を許しているというに過ぎないんじゃないの。それは、愛じゃない。
 誰かのことを知り尽くすことなんてできない。自分のことを知り尽くすことだってできないのに。その人と同じ年月をその人と共に生きたとしたって、やっぱり無理なのに。誰かが自分自身のことを言葉にすることにも、相手のことをこういう人間だと思うことについても、正しいことがあるわけでもなく、ただ、その人の見たいように見ているというだけ。
 この人はかわいそうな人だから、と、ひとりで寂しそうだから、と、それは哀れみであって、やはり愛ではない。誰かのために何かをしていることだけでは、かわいそうな相手を愛することに結局はならない。依存とは愛なのだろうか、とぼくは思う。誰かに何かを預けてしまうことで、人は自分の安らぎを得ている。
 その人自身が楽しめるように、楽しんだらいいのに。何かをすることも、されることも、やはり依存なのだと思う。それは、結局は互いのためにならない。
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 縁があるかどうかを人は決められるんだろうか。ただ偶然として何が起きたり、あるいは偶然を引き寄せたり引き起こしたり、もしくは絶対に偶然が引き起きないように自分を置くことも容易い。意思と偶然によって縁があるのであれば、そこに意思がない人には偶然など起きようがないように思われる。偶然が起きても、それを受け入れない意思を持っている人を、どうにもすることは適わない。
 人は人を自分の見たいように見るし、愛したいように愛する。その人の見方がどんなに歪んでいようとも、見ることは成立し、そしてまた愛することも成立する。
 多くの人にとって愛することは尊いことだ。自尊心も満たされる。愛されるなら尚のこと。誰かを愛していることは、それが自分に対するごまかしであったとしても、やはり自分自身に作用している。心が落ち着くように感じる。誰かを想っている自分というのがあるだけで、こころは安らぐのだ。想うだけでよい。でも、それは愛ではない。哀れみも愛ではなく、奉仕もやはりそれだけでは愛ではない。
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 愛を、確かに自分の中に感じたはずなのに、何処かへ行ってしまった。想う気持ちによる心の安らぎを、ぼくは感じていたいだけだった。誰かを想っていられる自分を、確認していたいだけだった。でも、それはたぶん愛じゃない。
「愛は、揺るがない」ぼくは、そう思っていたかったのだ。
 でも、たぶんそうじゃない。そうはなっていない。みんな自分自身をさえもごまかして生きることができてしまう、そういう許容量を持って、幅を持って、遊び・余裕を持って、生きている。誰だって愛せるともとも言えるし、誰も愛せないとも言える。ただ自分が納得できさえすれば、愛することは容易い。
 システマティックな愛に辟易する。自分をごまかして愛することに、自分の心を安らがせるために、自分が生きていくために、人を愛する自分が気持ち悪い。
 かといって、自分をごまかさずに生きていられるほどにぼくは清くもない。誰も愛さずにこころが安らぐことはない。そして、この世界で誰も愛さず誰からも愛されずに生き残ることはできない。
 ぼくは自分の気持ち悪ささえにも目を瞑って、生きるしかないのだ。そうすることが、(ネットによって変わりつつある人間関係の変化にも対応できずにただあり続けるだけの、)この世界を受け入れるということなのだろう。そうすることでしか生きることができなかった自分が気持ち悪かったというだけのこと。対応できていないのは世界ではなく、自分でしかないのだ。世界はただある。自分がうまく立ち振る舞えないというだけのこと。きっと、うまくやっている人はうまくやっている。ぼくはそこまで賢明ではなかったということなのだ。
 やはり、わたしはこの世界でどうあっても生きていたいのです。ごまかしたっていいんです。ごまかし、ごまかされていることに最期まで気がつかずに生きていたいものだと思う。なんだか変な話してますね。嘘は喝破されなけば、嘘にはなりませんから。