どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

できるかぎり幸せであるように

 わたしの生きにくさは、いろんな要素をはらんでいるはず。わたしはわたしを活かせないことにやきもきしている。いま自分がまったく幸せではないことにジレンマを感じる。どうあっても、人は誰でも幸せにあるべきだ。
 人は自分を、どう考えたっていい。その自由を持っている。でも、人にどう思われるかをコントロールすることは難しい。人が思うことを強制することも矯正することも困難なことかもしれない。
 自分をどう考えたっていいのだけど、そこには少なからず現実感というのがあって。たとえば、自分を身体の性別でないんだと考えることは可能だけれど、それが現実的にどうなのかはまた別のことだし、そして、どこまで自分がそこに真摯なのかはまた別のことだ。現実は確固として相変わらず現実なのだから。宇宙飛行士になる、と思ったって、いますぐに成れるというわけでもない。
 生きにくいと考えることもたやすいのであれば、またその逆も簡単なのかもしれない。なにかを捨てたら、なにかを得ることになるだろうし(例えば、自由とか)、なにかを得たら、何かを捨てることになる(例えば、時間とか)。
 何かに躍起になっている自分を、ぼくは愛おしいと思うし、誰かになにかを思われることに、ぼくは満更でもない。
 でも、だけど、そういうことさえも、どうでもよくなってしまう。この世界の中で、この宇宙の中で、自分がなんでもない──この世界のみんながそうであるように──ことだとわかっているものの、やはり、どうしても、自分にとって、自分は特別なものである。自分だけが、特別なのである。
 私が誰かを愛することをしても、それは自分があってのことだ。どうしたってそうだ。自分という人間がなければ、その誰かを愛している、という存在さえもない。
 誰かに愛されるとしても、私は、どうしても、その愛を、確かなものにしきれない。それは人が変わってしまうからだけではなくて、その存在を、確かなものにできないからだ。そういう存在も、人の気持ちも考えも思いも、どうにでもなってしまう。
 この世界のなにもかもは、確固たるものを信じられつつ、妥協され、そして、あやういバランスの上に成り立っていると、ぼくは知っている。儚いから美しいというわけではなくて、ただ、そうある。
 人の運命みたいなものは、どうしようもなくあって、でも、それを情動しているのは間違いなくその人自身で、なにかの思惑があるとしても、その人の縁を掴むのは間違いなくその人で、その人はその人の人生の役割を負っていく。それだから人生は面白いのに、つまり、その人がその人の人生を積み重ねていくことに人生の面白みがある──なんらかの自由と尊厳とともに──のだけど、その人生と人生の混じり合いのカオスにぼくはここ最近になってずっとたじろいでいる。
 ただ、好きだとか愛してるとか、そんなことでは片付けることができないなにかを人と人はいつも抱えていて、だから、ただ、一緒にいれたらいい、というだけでは片付けることができないのだ。
 人生は、もっとシンプルなはずだ。
 宇宙はもっとシンプルなはずだ。
 つべこべ考えずに、ただ、愛を表明していたらいいし、孤独を生きるのもいい。その相手が目前にいるということがすべてで、その隔たりはどんなに文明が発達したって変わらない。けっきょく、人と人のやることはずっと変わらないのだから。
 人生に於いて、自分の規定できる範囲は当たり前に決まっていて、そこに、誰の入る余地もない。ただ、自分のことを自分でやっていく、──できるかぎり幸せであるように──というだけのことなのだ。そういうシンプルさを常に念頭に置いておけたらいいのだけど。