わたしの中を駆け巡るもの
宇宙が拡がっているということは、宇宙の外側には宇宙ではないところがあるのだ、ということに気がついたとき、ぼくの身体の中の神経のすべて、余すことなく全部の通り道にはなにかが駆け巡って。
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自分はなにをするために生きているというわけでもなく、ただぼくを頼りにしてくれているぼくの周りの人のために存在しているというだけで、その背後には、自分が存在してしまっているという、うっすらとした申し訳なさが同居していて。
たぶん、ぼくたちは、なにをするために生きているというわけでもなく、ただ生きているから生きている。死なないから生きているってだけで。何かをしたとしても、それをするために生きているというわけでもきっとない。そのために生きているなんてことに値する何かなんて、そう多くはなくて、というか、たぶん、なくて。
だから、自分は存在してしまっている、なんて、思うんだろう。
理解したいとか、知りたいとか、造りたいとか、創りたいとか、書きたいとか、読みたいとか、そういうことは本当に些細なことで。
ぼくがここにいることも、ここで、いましていることも、明日ぼくがするであろうことも、なんでもないことだろう。
この世界には、こうでなくてはならない、なんてことはたぶんなくて、こうした方がいい、くらいのことしかない。
だから、どうやったってぼくは楽しく暮らせるはずで、実際にそうしているわけだけど、
でも、
やっぱり、空しいんだ。
些細なことは、人生を彩ることに過ぎなくって、自分に素直になることでしか、ぼくはやっぱり救われそうになくて。置いてきたものを取りに戻ることはできそうにないけれど、この先にも、また、昔に置いてきたものが巡ってくると、なんでか確信していて。
愛することを否定したシュンカンに人は壊れるということをぼくはたぶん体現したんだと思う。そうして自分をごまかした結果、今の自分があるのだと思う。
全部、ぜんぶ、、自分の周りに起こった何かの結果。そうあるべくしてなった結果。人を愛することも、愛することを否定することも、全部が何かの原因になって、何かを形作ってる。
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宇宙の外側にはなにがあるんだろう。また別の宇宙が、何かを隔ててあるんだろうか。でも、そのことでさえも、きっとぼくには些細なことなんだ。
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ぼくは、成長するために生きているわけではないし、満たされるために生きているわけでもない。ただ、生きるために生きている。人が、惑星が、太陽系が、銀河が、宇宙が、それから、宇宙の外側が、ただあるように。
そのことにはなんの“意味”もない。だけど、だから、生きられるってこともあるの。だから、小鳥のさえずりに心がなごむの。そらの果てを思うの。
いま、ここに生きているってことを実感できるのなら、それでいいんだ、って、その為にだったら、なんだってできるよ、って、“心の中”に駆け巡ったのと同じ作用を以って、感じている。