どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

愛のある振る舞いをいつだってされたいと思っている

 私は、愛のない行動を受けることが多かった。その結果、社会からあぶれてしまっているのが、今の現状なのだと思う。人をそもそも信じていないような感じがするし、愛を感じることが少なかった。だからといって、人に対して愛のない行動をするかというと、そうでもない、かもしれない。自信はない。愛のある行動をしたりしなかったりなのだろう。相手によるかもしれない。
 私は、常識というのが怖い。常識から外れた、まともではない行動をする人間には、愛のない振る舞いをしてもいいというのが、人類の掟みたいなものなのかもしれない。
 私は、まともではなかったかもしれない。何もかもがまともな人間なんているんだろうか。常識というのが怖い。恐れている。常識を守らなくてはいけないという人の目が怖い。そして、それから外れた人間に対する愛のない振る舞いが怖い。
 私はある人たちから、愛のない行動をしても構わないという烙印を押されていたし、それが全てではないとわかっているつもりではあるのだけれど、結果として社会からあぶれてしまった。愛のある振る舞いをしてもらうにはどうしたらいいのか、いまだによくわからない。
 時々、愛のある振る舞いをしてくれる人は現れていた。だから、私は今も生きているのかもしれない。かろうじて、だけれど。愛を知らないわけではない。だけど、いつだって愛されるという確信を持てない。群れの掟に従わなければ、愛のある行動をしてもらえないのだろうか。私は、不幸にも群れの掟を守れないことがあった。自分の嗜好のせいであると思う。自分の流儀が、少し人と違っているせいなのだと思う。やはり、常識は怖い。流行りの音楽、俳優、アイドル、お笑い、そういうものに興味がなかった。そういう結果として、愛のある振る舞いをしてもらえないことがあった。それだけのことと言ったら、それまでなのだけど、自分のフィットする群れを探すのに難儀した。この世界の、どこかにはあるのかもしれない。私は一つの群れにフィットしなかったからと言って、それだけで社会から阻害されている気分になっている。人生って、自分にフィットする群れを探し続ける旅のように感じてる。今は、そういう希望を持って生きている。相変わらず常識は怖いし、常識って群ごとにあったりする。それを素早く察知してフィットしていく柔軟さが私にはない。自分を変えることが難しい。自分の嗜好みたいなものがあって、その流儀を変えることが難しかったりする。自分の心地よさの方が、群れにフィットするよりも大事なのかもしれない。
 自分の心地よさをうまく表現して、生きていくことができたらいいのだけど、今のところそういう手立てはない。技術がないし、媒体も浮かばない。自分のように、居心地の悪さを感じて生きている人たち。群れにフィットしないことに怯えながら、それでもなんとか愛のない振る舞いの中で生きている人たち。愛さえあればいいと思う。私は不幸なことに、愛のない人たちと出会って時を過ごしてしまった。それだけのこと。私に愛を与えてくれる人が必ずいる。そういう場が必ずある。なるべく常識内に納まろうと努力しつつ、今日もフィットする群れを探そうとできたらいいのに。群れから外れ、独りでいる自分は、その務めを怠っている。フィットしたいと思える魅力的な群れはなく、常識は今日も怖い。一人でいる方がずっと楽になってしまっている。
 群れにフィットできない自分を、肯定できずにいる。そうやって、自己肯定感は削られていく。それが良いことなのか悪いことなのかも判断できずに、どうでもいいこととして、独りで生きてしまっている。生きれてしまっている。そうやって、愛からまた遠ざかっていくのだと思う。愛のある振る舞いを享受できないということが、私を苦しめている。そうやって孤独は深まり、またサイクルしていく。
 間違いないことは、愛を、心のどこかで求めているということだ。それだけは確かだ。愛の心地よさを知っている。愛のある振る舞いをいつだってされたいと思っている。このサイクルを断ち切るためには、群れの中に飛び込んで、順応していくしかない。それだけの柔軟さを、自分に課さなくてはいけない。そう思える魅力的な群れが、見つかると良いのだけど。今のところ、群れというものがそもそも自分には見えていない。そのくらいに、孤独は深まってしまっているのだと思う。