どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

世界中の誰をも、信頼したらいい

 どうして、自分は人を信頼できないのだろうと、思う。しないようにしているからできないのか。しないことを何かの目的からしているはず。
 ひとりでいることに、恍惚しているのか。心地良いのだろうか。寂しくはないのだろうか。
 自分に起こった不当について、わたしはわたしに不当をあてがった人々に物申したい気持ちになる。そのための、なにかに対しての反抗なのかも知れない。無言のストライキなのだ。だから、時々、彼らにそれを、つまり、自分が今こうなっているということを、知らしめたい気持ちになる。そうしたって仕方がないことはわかっているのでそうはしない。
 どこにも行き場のない気持ちを、ぼくはずっと抱えている。
 ストライキしたって仕方がないし、その上で、それを知らしめたところで、彼らの人生には、なんの影響もないだろう。そういう人たちだから。
 ぼくは信頼したい。だけど、そうはできない。彼らを、ではなくて、この世界にいる人たちを。この数年、人がぼくに構ってはくれたのだけど、それも、とても虚しいものだった。とても、つらかった。いま思えば信頼できていないという実感をずっとどこかに抱えていた。ぼくは、ちゃんと信頼されたかった。
 誰かを信頼できないからといって、その他大勢の人もそうであるとは、なんとも白黒思考で、危ういとも思う。だけど、そうなってしまう。世界中の誰も信頼できないと思っている。理屈ではわかる。信頼するべき人と、そうしなくていい人がいるってことを。そして、信頼しなくていい人のことを信頼したい、と、捉われてしまっている。
 彼らにとっては、あれは裏切りではなくて、ただ、関わりたくない人間に、そうした、というだけなのだろう。でも、ぼくは、彼らを信頼しようとしていたし、信頼もしていた。でも、あの人たちは、信頼しなくていい人たちだった。その、やり場のない気持ちをずっと抱えたまま、この10年を過ごしてきたような気がする。本当にやり切れないけれど、そのことに捉われていたら、ぼくは生きていられない。少なくとも健康には。彼らは、ぼくとは関係なく、幸せになっている。
 信頼してはいけない人がいる、というのが、自分ではよくわからないでいる。
 世界中の人のことを信頼できるはずなのに。そこを明るみにしなくては、うまく生きられそうにない。そのことが意味不明で、理解不能で、私は却って誰も信頼できなくなったのだ。
 彼らは、私のことが嫌いだったのだろう。だから、私は彼らを信頼してはいけなかった。そう考えることができたら、少しは楽になる。彼らは、嫌いな私という人間のことを、嫌いとは振る舞わずに嫌っていた。そして、その上で、私のことを裏切るともなく当然に裏切ったのだと思う。
 そこには、彼らの恋愛も絡んでいて、そしてそこに私も含まされていて、その人の感情の機微に、その不条理に、その人の厚かましさに、その都合の良さに、私の心は崩壊した。
 彼らの偽装に、私は無頓着だった。疑いもしなかった。そのことを知った私はそのことを自分自身から隠した。うやむやのまま、私は病んだ。もっと早く、自分が嫌われているとわかっていたら、私はもっと生きやすかった。
 だとしたら、私は私のことを嫌いな人間を見極めることが必要なのだ。そして、その人間を信頼しなくていいと決めること。肯定しなくていい人間を、肯定しなくていいと決めること。そうしたら、生きられる。
 今でも、捉われている。私は、どうしたらいいのかわからない。すごく、つらい。彼らを、信頼したらいいのか、信頼しなくていいのか。信頼してはいけないのか。私のことを嫌いな人間を信頼しなくてもいい、というのはとてもわかる。
 この世界の何割かは、当然に私のことを嫌いなのである。でも、そうではなく、好ましく思ってくれる人もいる。そのことを知っている。知ってはいるけれど、そのことを、いまいち確証を持って信じられない。信頼していい人の存在を、私は確信できていない。
 信頼していた人が、信頼してはいけない人だったから。その見分けが私は付いていなかった。今でも、できないと思う。
 そうやって、人を信頼しないことを前提とした人付き合いを私はするようになり、そうして、私は人付き合いをできなくなった。
 だから、友情も、恋愛も、人と接することがそもそも、うまくいくわけがない。誰も信頼しない人間に、人付き合いができるわけがない。
 もしかしたら、私のことを嫌いではない人なんて、いないのかもしれない。何もかもが私の思い過ごしで、私はこの世界の誰からも嫌われる存在であるのかも知れない。そう思える時もあるし、それは、大抵の場合そうである。ときどき、そうではないかも知れないと思って人にちょっかいを出しても、やっぱり、そんなに確信はない。私は、人に好かれないたちなのだ、と心から思ってしまう。
 入院してよかったのは、看護師さんは少なくとも人として扱ってくれるからだった。でも、大抵の人はそうではない。私のことを、人としては扱わない。私は無条件にそう思ってしまう。どんなに人がいいように扱ったとしても。疑心暗鬼の塊として生きている。
 私のことを好きだという人のことにも疑心暗鬼になっている私には、人を信頼する余地がない。きちんと人を信頼したいからつらいんであって、そうしないと思ったら生きられないと思いつつ、どうにもならない感情をずっと抱えて生きている。
 物語の世界は、無条件に世界を、世界の人を、肯定していることが多くて、私は溜飲を下げる。
 世界中の誰もを、信頼していい、となったら、そんなに生きやすいことはない。その上で、私を嫌いな人を見極める眼力が欲しい。その人からは距離をとった上で、私は人を信頼し続けることができるから。
 人を信頼せずに、生きることはできない。そして、自分のことを嫌いな人のことを、信頼しなくてはならないと思うことほど、矛盾することはない。そういう人は、自分とは関係がなくなって影響がなくなるに距離まで離れて、それでも信頼していたらいい。それでいいんじゃないか。
 ぼくは、人を信頼していたい。