どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

わたしが書く理由

なんで書きたいのかって、
「言葉を話すことができない」ということを実感を持って人に伝えたいから
なんじゃないのかなー、と思う。しゃべれなくなったことについて、誰を恨んでいいのかわからないし、恨んでいいわけでもないけど、なんか、そのこと昇華したいんだよね。自分の中で。供養したいっていうか。それは呪詛みたいなものかもしれないし、もっと違うものかもしれないけど。
 基本的には読んだ人に楽しんでもらいたいと思ってるし。
「言葉を話す」って、今だに不思議な気持ちになったりしてるけど、普通の人にとって当たり前のことがぼくにはそうではないから(なかったから)、そのことを押し付けがましくなく、「しゃべるってことは良いものだ!」って書きたいんだと思う。
つまりは
「言葉を話す」ということを実感を持って人に伝えたいんじゃないのかな。
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 言葉を話せてもディスコミュニケーションはあるし、話せなければ当然にある。最近は、「言葉を話すこと」のディスコミュニケーションについてなんだかぼんやり考えてる。
 相手を知ろうとしなければ、簡単に齟齬は生まれるし、好きだから生まれてしまう誤解もある。人は基本的にその人の取りたいように都合よく受け取るから。なんか誤解されてるなー、っていう時に、それを解こうとしない、とかさ。そもそも誤解されていることにも気がつかないとかさ。この人とはもう無理だ、とかさ。言ってもしょうがない、とかさ。そもそも聞いてないとかさ。聞こえてるけど聞いてないとか。伝えたけど、伝わってない、とかさ。
 基本的にはみんなどうでもいい人のことはどうでもいいし、気になる人のことは喫茶店で横になっただけでも耳をそばだてる。
 「言葉を話す」ってことの面白さは、話している時の表情とか、言い方のニュアンスとか、自信がありそうな言い方とか、そもそもの話す人のキャラクターとか人格とか、そこにあるとてもたくさんの「言外の」情報にあると思ったりもする。ただ情報を伝達するというだけでもない。なんかを受け渡してる。例えば、「愛」みたいなもの。嫌悪も好意も、もう、その人が自分をどう思っているのかなんて、たちどころにわかってしまう、こともある。あるいは、その人自身をその人がどう思っているか、だとか。話題に上がっていることや人を“本当には”どう思っているか、だとか。こんなこと書いたら、喋ってくれる人がいなくなりそうだけども。
 だけど、だからこそ、しゃべるのは面白いなー、と思ったりする。
 いろんな人と接するうちに、こういう気持ちとか状況の時に、人はこういう言い方をする、こういう仕草をする、こういうニュアンスを組み込む、みたいなことが溜まってきたし、元々持ってたアイデアも含めて、何か書きたいなー、という感じ。
 というか書く。
 書かないと気が済まない。
 別にそれは今でなくてもいいのかもしれないけれど、やらない理由や言い訳はいくらでも、いつでも出てくるんだから。
 こういうことを実感を持って書けるのは、この世界に自分だけなんじゃないかと、不遜ではなく本当に思ってる。だから、書くべきだと思う。
「言葉を話す」ということの歓びを自分には書けるんじゃないか。それも、実感を持って。それは、それだけは誰にも真似され得ないし、自分だけのものだ。だけど、誰でも普通にやっていることだ。気が付いていないだけで。だからこそ、面白いものができるんじゃないかと、思ってる。
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(友人へのメッセージからの抜粋と追記)