どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

あらゆる言い訳を払拭した先にある、私が隠し持っている本当のしたいことについて

 言い訳をしている自分というのがいる。自分のしたいことがあるとして、それに向かわないことはすべて自分に対する言い訳である。どんなに言葉を尽くしても、どんなにそれが必須のことであったとしても、自分のしたいことに向かわないのなら、それは言い訳に過ぎない。
 私には、あまり、したいことがないかもしれない。けっこう無欲なほうだ。それでも言い訳をしてしまっている。ふと思いつくことは、大抵が自分をおとしめるようなことで、自分をけなすことによって自分なんかがと思い、そうやっていろんなことに対する意欲を失う日々だ。これだって、言い訳なのだと思う。自分の自発的なものではないにせよ、自然と湧いてきてしまう思考そのものが、言い訳めいている。生きることに向かわないこと、活き活きと前向きでないことのすべては言い訳なのかもしれない。したいことをしないための、生きることをしないための。
 生きることについて、どっちでもいいと思ってしまっている。言い訳ですらどうでもいいと思うことがある。生きることの邪魔をする、いろんな思考が私の中に渦巻いているけれど、それらは生き切らなくていいという言い訳なのだ。日々を生きていることに変わりはない。それなりに生活だってある。だけど、やはり、言い訳をしている。
 自分のやることなすことをどう思っているのか。下らないことをしているのではないか。そう思ったりする。どうでもいいことばかりしているような気になる。それだって生活のため、と思えば必須のことに感じる。だけど、本当にそうだろうか。言い訳しているんじゃないか。そう思ったりする。頑張らなくていいなんて、自分が決めていることだ。生き切らなくていいなんて、自分が決めているのだ。そのために言い訳を用意している。
 すべての言い訳を払拭することさえできたら、もっといろんな自分というのが見えてくる予感がする。あるいはそうだといいなと思う。そうできたらな、と。いろんなしがらみがある。湧いてくる思考のほとんどは言い訳である。あるいは妨害である。自分がうまく生きようとすることに対する。行動も、怠惰も、もうありとあらゆることが言い訳めいてくる。何をしたって、言い訳しているような気になってくる。あるいは、考えることも。
 私は、たぶん、自分のしたいことを心の奥底に隠し持っている。だから生きている。あるいは、生きることをやめない。生活することをやめない。そして、それに対する言い訳をしていることに気がついている。隠すことそのものが言い訳であり妨害なのかもしれない。そこに向かわないための。チャンスをうかがっているわけでもない。ただただ、自分をごまかして生きているだけなのだ。私にはどうしてもしたいことがある。あるいは、なりたい自分というのがあるのだ。それに向かわないのには理由があるんだろう。たぶん、人生上のトラウマ的な何かによって。あるいは性格なのか、はたまた病気なのか、障害なのか。
 どこにも向かっていない人生を生きている。人生は長いようで短いかもしれない。というか、自分で長さを決められるものではない。猶予は少ない。言い訳ではない行動が頻発するようになったら、私はどこかに向かっているのだろう。私は気がつくはず。私が真にやりたいことに。人生の真の意図を隠し持っているだけでなく、あらわにし、それを実行しようとひたむきに努力できるはず。言い訳はいくらでもできる。しかし、真の人生はたぶん、一つしかない。自分の隠し持っている、その欲望に気がつくことができるか。人生の充実はそこにかかっているのかもしれない。あるいは、すべての言い訳を払拭して行動する先にある、自分の選んだ道が、それが私の本道になるんだろう。一つの正しさに向かっていくというよりは、自分の選んだものを正しくしていくのが、本当にしていくのが、人生なのかもしれないと思う。

コーヒーと楽しみ

 ぜんぶ、コーヒーがあれば解決すると思っていた。自分の中のことは、コーヒーがあればなんとかなると思っていた。不思議とそう思っていた。この世界がうまくいかなかったり、いや、違う、自分がうまくいかなくて、本当に心底ついていないなと思うときだって、コーヒーを飲んだら安心した。それが僕のちょっとした真理だった。
 世界は、くそだ。そう思ったこともある。だけど、この不条理な世界を乗り切れない、楽しめない自分がいて、その自分がくそなだけであって、世界は平然としてあるだけなのだ。世界がくそだという人間が、くそなだけで、楽しんでいる人は楽しんでいる。何が正しいのか正しくないのかだって、世界は決めない。ただ楽しんでいる人がいる、そうでもない人がいる、それだけの話なのだ。
 コーヒーは僕を落ち着かせる。そんな僕を。たじろいでいる僕に一呼吸くれるのだ。この世界でどう生きたらいいのかわからない僕だって、なんとか生きていられるような気がするのは、コーヒーがあったからだ。それはなんでもない、ただの飲み物であって、それによって何かが変わるというわけでもない。いたたまれない日常を生きている人間に一呼吸おくことをさせるのは、コーヒーだった。コーヒーがあるから生きていられると言っても言い過ぎじゃない。世界にどんなに絶望しても、コーヒーは世界は変わらずにそこにあった。
 コーヒーを通して世界を楽しんでいるのかもしれないと思う。苦いコーヒーを飲むことで、世界の何かを感じているのかもしれなかった。あるいは、コーヒーによって近づく死を私は享受しているのかもしれない。
 コーヒーを飲むことで私の中にできる構え。それによって一気に集中したり、ほころんだりする。世界はあるようにある。ないものはない。誰かの意思だったとしても、それはそれで世界だ。自分の意に沿わないものは避けるしかないし、楽しめるものは楽しんだらいい。問題なのは、この世界を楽しみきれない自分にある。問題なのは、他ならぬ自分なのだ。いろんなことをセーブし、抑圧し、節制し、楽しむことができていない。あれはダメこれはダメこれはしないこれはしてはいけない、いろんなことで自分を縛っているのは自分である。楽しみを享受することは、本来的に自由であるはずなのに。いろんな理由によって、自分から楽しめないようにしている。そんなのは馬鹿げている。それでも、やめられないのが人間なのかもしれないと思ったりもする。
 楽しむことをしなければ、楽しめない。楽しもうと思わなければ、楽しめない。私には楽しいことは少ないような気がする。人と比べてどうかということではなくて、生きている総体として絶対量が少ない。楽しまなくては人生は楽しくないのだ。そんなことはわかっているつもりだ。つもりなのだけど、全然わかっていない。楽しもうと思えないからだ。楽しもうと思えないように世界がデザインされているのではなくて、自分が楽しめないから、楽しくないのだ。コーヒーの苦味はそんなふうにデザインされている。つまり、楽しもうと思えば美味しい飲み物になるし、苦いと思ったらただ苦い飲み物に過ぎない。
 人間はいつか死ぬ。コーヒーを飲もうが飲むまいが死ぬ。人は何をしていたって死んでしまう。何かの道の途中で。意思の途中で。
 楽しめているか、それを問うために今日も、僕はコーヒーを飲む。

自分なんかが、と思ってしまうことについて

 謙遜でも何でもなく、自分なんかが、と思ってしまう。突き詰めれば、鬱なのもそれが原因かもしれない。どちらが原因かももはやわからない。自分をおとしめようとして、自分を責めるようなことを考えてしまう日々。それに他人を利用してしまうのだから、世話がない。全部、自分なんかが、と思っている自分が悪いのはわかっている。そう思いたくて、自分をおとしめてしまうのだと思う。それが、自分の鬱的な心情の原因になっているのだと思う。
 自分のことを、知っているようで知らない。自分に何ができるかを、うまく把握できていない。ひょっとしたらできることを、できないと錯覚したり、できないことにしているのかもしれない。うまく自分を扱えないのだ。うまく運用できていない。誰にも期待されていないし、認められてもいない。ただ日々はつづく。期待されたいとも、認められたいとも思っていない。そうしなければできないことは多いのだけど、そうしようと思えないのだ。
 人に認められたら、それで自尊心は満たされるのかと言ったら、どうもそうでもないらしい。それで自分を苦しめた結果、私は病んでしまった。認められたいと願ったわけでもないのに認められてしまった結果、私は体調を崩した。自分のしたいこと、本当にしたいことは何なのか、いまだにわからないでいる。
 自分で自分を認めたいのかもしれない。他者を介さずに、自分で自分を認めることは難しいことなのかもしれない。だけど、この人に認められたいということがない。うまく自分を扱えないと、開き直って自分を責めている日々。
 自分のすることでしか、自分を認めることはできない。自分がどうするかでしか、自分に期待することはできない。自分なんかが、と思うとき、私は何かから逃げている。開き直っているのかもしれない。自分なんかがと思うことは容易い。自分を低く見積もったり、できないと嘆いたり、自分みたいなもんがと思うことは容易い。そして、その多くは、自分が自分にそう強いている。自分でそれでいいと思ってそうしていることは実は多い。その程度でいいや、と思っているのは自分なのだ。できないことをできるようにしていくのが、生きていてするべきことなのかもしれない。自分のしたいことを見つけて、それを実行していくのが、人生なのかもしれない。やろうと思わなくてはできない。自分なんかがと思っている人間にできることは少ない。機会もない。意欲もなくなるだろう。自分なんかが、と思うことは、卑しいことだ。そうやって、自分に保険を打っている。できなくても、自分なんかにできるはずがなかったんだ、って。自分にできる範囲はこの程度なんだ、って。自分なんかと低く見積もっている限り、自分に降ってくる満足は少ない。というかない。
 自分にはできるという根拠のない自信を持つのではなく、地に足をつけた努力をしない限り、人は何かをできるようにならない。したいことができるようにはならない。本当にしたいことが何なのかを気づくこともない。ただ日々の喧騒に巻き込まれて生きざるを得なくなってしまう。
 自分をおとしめてしまう思考の癖を消すことは簡単ではない。でも、自分なんかが、と思うことをやめることはできるだろう。他人に頼ることなく、自負心を養うことができるのかもわからない。人に認められていったら、自分なんかがと思わずに済むのかもしれない。果たして本当にそうなのだろうか。自分で自分を認めることができなかったら、何をしていても、空虚なままだろう。人に認められることは大事なことだ。恋愛は、その極致だと思う。だけど、自分で自分を認めずに、できることは少ない。自分なんかがって、思いすぎている。それは、自分のせいだ。自分で何とかしなくてはいけない、自分の課題だ。たぶん、いろんな理由から、僕は自分なんかがって思っているのだと思う。だけど、それですら、自分で選んでいる可能性はある。だって、足掻いていない。人によって、自分によって、自分なんかが、って思っている。うまく、自尊心を育むことができたら。うまく、自分を扱うことができたら。そう願って、今日も生きている。