どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

恋の目

 独りでも人生を楽しめそうになっている自分は、なんだか危ういなーと思う。
 恋をしている女の人の目を、ひさびさに見た。それはとても綺麗だった。人をおもう気持ちが目に現れていたのだ、きっと。それはとても潤んでいて。きらきらしていて。目の全体の形はなんだかとろんとしていて。睫毛はなんだか上がっているように見えて。男から目を離さないという決意に溢れていた。
 こんな目をしている人がそばにいたことがあったと、心でおもい出していた。
 恋は窮屈だ。心の中が窮屈になってしまう。何も考えられなくなるし、いや、それはおそらくは表現不足で、その人のことしか考えられなくなる。……何も手につかなくなる。足は自然とその人の方へ向かっていく。月を見たって、その人のことを思ってしまう。その指は無意識にその人の名前をなぞっている。
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 自分のしでかしたことと向き合うことが美しさの由来であるのに、それを失ってしまっては、どんな美貌も心の清らかさも、無に等しいとぼくは思う。自分は間違ってはいないという頑なさは、却ってその人を間違わせる。そうして、その人はずっとずっと美しくあれない。
 そして、自分に哀れみを向けさせようという人の醜さよ。自分のしたことを自覚していようがしていまいが、醜い。つまり、自分がどう見られているのだろうかと、自覚していないということ。その人が自分をどう思っていようとも、そう表現してしまったら、それは必然として人にそう見られる。人が人に哀れみを向ける義理など何もない。しかし、無意識に醜い人は多い。自分も含めて、敗れ去っている。
 まぁ、そういう人生もあるのだろうけれど。
 なんでも神経を尖らせて行う必要はないのだと。自分を追い込みすぎるなよ、と。あやふやなままでいいんだ、と。やるべきところをしっかりやったらいいんだと。魂を込めたことは、わかる人にはわかる。誰にでもわからなくたっていいのだから。誰にでも好かれるわけがないのと同じこと。
 ぼくは何かを失った人間だ。だけど、今のぼくを見て、ぼくという人を判断してくれる人があったら、どんなにうれしいことか。今のぼくの人格構成だって、たぶん、ハリボテに過ぎなくて、簡単に見破られてしまうのだろうけれど。
 それでも、なんとかなるべく幸せに生きていく。そういう人生なのだから。
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 人を愛することの、あるいは自分を愛することの一抹の不安は、たぶん、そんなに大したことではなくて、ただ、なるようになるのだと思う。あの「恋の目」を見てから、そう思うようになった。
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 独りでも、人生を生きることはできるだろう。あした終わったとしても、それは紛れも無くぼくの人生だ。ただ、人生を楽しみ尽くせるかどうかは、また別であるとぼくは思う。いつ終わるともわからない人生で、楽しみを尽くせるのかどうかなんて、ぼくには死ぬまでわからない。死ぬ間際まで、ぼくは気を抜かないのだろう。幸せである、ということについて。
 ぼくは、なんだか浮かれてしまう。心が締め付けられるような気持ちになる。この世界のあらゆるものの、この社会を構成している総ての、あるいは人の、機微というものを少しずつ経験するたびに。どうしてぼくがこんな風に感じるのか、わからない。それは、吐き気とも、(悪)酔いとも、高揚とも言えそうな、不思議な気持ち。
 それが、楽しみを尽くすこととつながっているような気がするのだけど。だとしたら、どこでどうやって生きていたって、楽しめるのだろう。誰といたって、楽しみを尽くせるだろう。
 そう思うんです。

にんげん1回目

 生まれて初めて餃子の王将に行った(めちゃくちゃうまかった)。
 その時に不意に流れた曲(それはとてもぼくを感化する好きな曲だった)。
 たぶんそれで、ぼくの心はあふれてしまって、不覚にも涙をこらえることができなかった。
 相乗効果は考えもしない組み合わせで起こって、渦状にぼくの周りを廻ってから、その“水”を大気に戻していった。
 この街で、あの娘を見かけてから、もう1ヶ月が経とうとしている。“あの日”からの数日間をぼくは孤独に過ごし、君をこの街に見かけたあの1ヶ月前の“その日”のあとの数日間を、ぼくは、なんだか一人ではないように過ごしていたのかもしれない。
 人は、というか、ぼくは、自分の都合の良いように考えてしまいがちなんです。だってそうなったら素敵だと思うから。そうなって欲しいと願っていたから。でも、そう自分の都合の良いようにはいかない。そういうものである。
 ……そういうものである。
 きみのいない世界にも、きっと、良いことはたくさんあって。まだまだぼくは世界について見落としていることがいっぱいあって。
 だから、大丈夫で。ぼくはぼくのことを見くびっていたし、きみの存在だって見くびっていた。こんなにもきみのいない世界について、空虚を感じていた自分のことを、今日になって、実感したのだった。
 世界について(見)落としていたすべてを見つめることができたなら、ぼくの人生は、もっと、ずっと、豊かになるって気がする。
 自分の何かを失って他の何かを得ることがある。例えば、お金を払って何かを買う、だとか。きみを失って、見落としていた世界に気がつく、とか。
 ぼくは、どうやら人間をするのが1回目のようなんです。
 きみのいない世界にも、だんだんと慣れてきて。きみのことを忘れてしまうことが本当に寂しいのだけど、それでも、生きていけるくらいにはきみという人はぼくにはくい込んではいなかったみたいで。
 きみに貰ったいろんなことは、たぶん、ぼくがきみを失ってから気がついた、見落としていた世界につながっていて。だから、きみがいなくても、ぼくは今まで見落としていた世界のすべてを探るための目を、つまりセンサーを、感受を、ぼくはすでに手にしている。それをきみがくれたから。
 あの日見たあのひとは、きっと、ぼくが見たかった、ぼくが創り出したまぼろしなのかもしれない。そうすることによって、ぼくはぼくの中のあなたに気がつくことができて、そうして、ぼくがあなたから受け取ったものを、自分の中に自覚したのだから。
 一日の労働を達した後の、なにげなく入った中華料理屋でおいしいものを食べながら、なにげなく掛かったとても好きな曲を聴いて、ぼくは満たされた気分になっていた。
 今夜、偶然に組み合わさってわたしの中に起こったことのすべては、ぜんぶがきみから受け取ったものの象徴だった。それ自体が象徴というのではなくて、きみがぼくにくれたセンサーをぼくの中に感じさせたのだ。
 人間をするのが1回目であるぼくに備わったこのセンサーを使って、ぼくは、ぼくのこの困難な人生を、なんとかまともなものにできるだろう。だって、ぼくは、ぼくの楽しみを、自分の中に創り出すことができるのだから。

なにが人に文章を読ませるのだろう

 今あなたは、この文を読んでいるが、読んでいるいうことは、何らかの理由があってこの頁を開いたということだ。つまり、なぜかしらこの頁につながるリンクがあなたの前に現れたからとか、なんだかそういうことなのだと思う。初めてここを訪れるというわけでもない人には、この頁群に対して、何か思っていることがあるのかもしれない。
 とにかく、なんらかの縁があってこの頁を開いたということだ。その人たちの中には、この文章の最初の文を読んだ時点でこの頁を閉じてしまった人もあるかもしれない(その人は当然この文は読んでいるはずがないわけだけど)。なにがその人に文章を開かせるのか、あるいは読み進ませるのだろうか、ということについて、考えたい。
 たぶん、いま、この文章を読んでいる人のうちの何人かは、ぼく(この文章を書いている、この、わたくし)のことを直接に知っていて、もしかしたら、なんらかの関わりのある人なのかもしれない。つまりこの文章を読む背景に、書いている人間の人格なり人間性なりを無意識に感じている人たち、ということ。無意識に、とあえて書いたのは、そう思えば、あるいは思わなくても、そういうことを容易に思い浮かべることができる人たちであるから、ということだ。
 そういう人は、きっとおそらくは、その人の知っているぼくという人間をぼくの書いた文書群に当てはめるだろうし、また逆に、ぼくの書いた文章群を、ぼく自身の印象に追加するのかもしれない。
 ぼく自身はそのことにはなにも抵抗しない。だって、それを否定することは永遠に叶わないことだから。そう思われることはとっくに織り込み済みで書いている。
 翻って、ぼくのことをぼくの書いた文章を通してしか知らない、という人もいるのだろう。そういう人の中には、もしかしたら、この文章を書いた人はこういう人かもしれない、と思っている人もあるかもしれない。一つの文章を読んだって、その文章を書いた人のことに想いを馳せること(たとえば、変に理屈っぽい人だなぁ、とか、そんなこと考えたって人生のなんの楽しみにつながるんだよ、とか)は容易だし、自然と“無意識に”そうしてしまうものかもしれない。
 書いたものを読む人。おそらく、そういう人たちの多くは、ただ読むだけのことしか考えない。ぼくだってそうだ。自分の持っている端末なりモニターの向こうにそれを書いた人がいるなんて露にも思わずに、ただ(おそらく、楽しみだけを求めて)読む。楽しめないと思ったなら、読むのをやめるだろうし、次回の更新を待って読もうだなんてまったく考えもしないだろう。それは、書いた人を知っていようがいまいが、まったく関係なく自然の摂理としてやめることになる。
 読んだ人が去っていくのは当たり前のことだから、別にそのことについてぼくは特段に思うこともない。むしろ、最初からずっとそんな人は一人もいない、ぜんぶまやかしだった、みたいなことを考えたりするくらい。
 読む人は、その向こうに書いた人がいるなんて露とも思わずに、その書いた人のことを“無意識に”思い浮かべる。文章が読んだ人にとって面白かろうが、そうでもなかろうが、読んだ人のアイデンティティを脅かそうが、脅かすまいが、とにかくなんとしても、浮かんでくる。
 これはぼくの想像なのだけど、機械が文章を書いたとしても、その個性(?)を感じてしまうのが人間だし、それが人間の心の機微の面白さだと思うんだけど、まぁ、それはまた別のはなし。
 とにかく、読んだものについて、それを書いた人のことを、人は思い浮かべたりする。書いたものだけから思い浮かべることもあれば、すでに知っているその人のイメージに書き加えていくようなこともあるのだろう。
 そこで、ぼくは、こう思う。人が書いた文章はどのくらいその人を表すんだろう、と。それはどのくらい真に受けてよくて、どのくらい人のイメージを書き換えるのに有効で、そして、書いた人のイメージを形作るものなんだろう、と。
 別にぼくはネットだけで自分を判断されることを嫌悪しているわけではないし、自分の書いたもので自分という人間を解釈されることについて、厭がっているわけでもない。そんなこと思ってたら、ネットに文章なんて書かない。
 ぼくは自分の考えていることを時にあけすけに書いてきたから、読んだ人は、そんなことを世界中に開かれたところに表現するようなことかよ、とか、露悪的だと嫌悪することもあるかもしれない。
 ぼくは素直に自分の表現として文章を書いてきた、と自分では思っているから、ぼくのなにかがこの文章群に現れているのは確かだ、と思っている。自分を過剰に良く見せようなんてそんなに思わず、人に広まりたいとも思わない。ただ自分の表現として文章を書く場があるということが大事だった。文章を書いて、そのことによってそれを読んだ人の中のわたしの像が書き換わっているかもしれない、と想像するのはなんだか楽しいことだ。具体的にこう書いたらこう思われるだろう、なんて、そんな大それたことは全然思わなくて、ただ、漠然と、表現をすることが楽しいのだ。
 表現をするということはそういうことなんだ、といまになって思う。
 読んでいる人がいるかもしれないとただ思うだけで、実際に読んでいる人がいるかなんて、わからないことなのだけれど。
 ぼくはぼくの表現によって、いつも自分を書き換えていく。それは書くことに限らず、ありとあらゆる行動や振る舞いや仕草や、ものの言い方、表情や、匂いや服装や髪型や、もう、ありとあらゆる「わたし」を用いて、自分を更新していく。考えていることは時に文章になるし、行動や振る舞いや仕草や、ものの(以下略)になる。
 つまりなにが言いたいのかっていうと、この文章やこの文章群を読むことについて、ぼくとあなたには多生なりともおそらく縁があって、こうしていまこの文章を読み終えつつある。こういうメタ描写をしてしまうことにすら嫌悪を抱く人がいそうだけれど、まぁ、それはそれとして、あなたはとにかくこの文章を読んだ。この文章を書くことによってわたしはわたしの一部分(あくまでも一部分)を表したし、書いたわたしという人間の印象について読んだあなたが何かを書き換えたのだとしたら、あなたも変わっているということなのではないか。つまり、読んだあなたもこの文章を読むことであなた自身を書き換えたかもしれない(あるいはなにも起こらなかったかもしれない)。
 読むことで自分を書き換えることこそが、ぼくは読むことの楽しみだと思う。書くことで自分を書き換えるとういことだって、もちろんある。そういうことをしていたいわけです。だから、文章を公開する必要がある。それもなるべくあけすけに書いていたい。
 なにが人に文章を読ませるのか、って、それによって自分が変わるかもしれない、と思うからだろうと、ぼくは思う訳です。