どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

なにが人に文章を読ませるのだろう

 今あなたは、この文を読んでいるが、読んでいるいうことは、何らかの理由があってこの頁を開いたということだ。つまり、なぜかしらこの頁につながるリンクがあなたの前に現れたからとか、なんだかそういうことなのだと思う。初めてここを訪れるというわけでもない人には、この頁群に対して、何か思っていることがあるのかもしれない。
 とにかく、なんらかの縁があってこの頁を開いたということだ。その人たちの中には、この文章の最初の文を読んだ時点でこの頁を閉じてしまった人もあるかもしれない(その人は当然この文は読んでいるはずがないわけだけど)。なにがその人に文章を開かせるのか、あるいは読み進ませるのだろうか、ということについて、考えたい。
 たぶん、いま、この文章を読んでいる人のうちの何人かは、ぼく(この文章を書いている、この、わたくし)のことを直接に知っていて、もしかしたら、なんらかの関わりのある人なのかもしれない。つまりこの文章を読む背景に、書いている人間の人格なり人間性なりを無意識に感じている人たち、ということ。無意識に、とあえて書いたのは、そう思えば、あるいは思わなくても、そういうことを容易に思い浮かべることができる人たちであるから、ということだ。
 そういう人は、きっとおそらくは、その人の知っているぼくという人間をぼくの書いた文書群に当てはめるだろうし、また逆に、ぼくの書いた文章群を、ぼく自身の印象に追加するのかもしれない。
 ぼく自身はそのことにはなにも抵抗しない。だって、それを否定することは永遠に叶わないことだから。そう思われることはとっくに織り込み済みで書いている。
 翻って、ぼくのことをぼくの書いた文章を通してしか知らない、という人もいるのだろう。そういう人の中には、もしかしたら、この文章を書いた人はこういう人かもしれない、と思っている人もあるかもしれない。一つの文章を読んだって、その文章を書いた人のことに想いを馳せること(たとえば、変に理屈っぽい人だなぁ、とか、そんなこと考えたって人生のなんの楽しみにつながるんだよ、とか)は容易だし、自然と“無意識に”そうしてしまうものかもしれない。
 書いたものを読む人。おそらく、そういう人たちの多くは、ただ読むだけのことしか考えない。ぼくだってそうだ。自分の持っている端末なりモニターの向こうにそれを書いた人がいるなんて露にも思わずに、ただ(おそらく、楽しみだけを求めて)読む。楽しめないと思ったなら、読むのをやめるだろうし、次回の更新を待って読もうだなんてまったく考えもしないだろう。それは、書いた人を知っていようがいまいが、まったく関係なく自然の摂理としてやめることになる。
 読んだ人が去っていくのは当たり前のことだから、別にそのことについてぼくは特段に思うこともない。むしろ、最初からずっとそんな人は一人もいない、ぜんぶまやかしだった、みたいなことを考えたりするくらい。
 読む人は、その向こうに書いた人がいるなんて露とも思わずに、その書いた人のことを“無意識に”思い浮かべる。文章が読んだ人にとって面白かろうが、そうでもなかろうが、読んだ人のアイデンティティを脅かそうが、脅かすまいが、とにかくなんとしても、浮かんでくる。
 これはぼくの想像なのだけど、機械が文章を書いたとしても、その個性(?)を感じてしまうのが人間だし、それが人間の心の機微の面白さだと思うんだけど、まぁ、それはまた別のはなし。
 とにかく、読んだものについて、それを書いた人のことを、人は思い浮かべたりする。書いたものだけから思い浮かべることもあれば、すでに知っているその人のイメージに書き加えていくようなこともあるのだろう。
 そこで、ぼくは、こう思う。人が書いた文章はどのくらいその人を表すんだろう、と。それはどのくらい真に受けてよくて、どのくらい人のイメージを書き換えるのに有効で、そして、書いた人のイメージを形作るものなんだろう、と。
 別にぼくはネットだけで自分を判断されることを嫌悪しているわけではないし、自分の書いたもので自分という人間を解釈されることについて、厭がっているわけでもない。そんなこと思ってたら、ネットに文章なんて書かない。
 ぼくは自分の考えていることを時にあけすけに書いてきたから、読んだ人は、そんなことを世界中に開かれたところに表現するようなことかよ、とか、露悪的だと嫌悪することもあるかもしれない。
 ぼくは素直に自分の表現として文章を書いてきた、と自分では思っているから、ぼくのなにかがこの文章群に現れているのは確かだ、と思っている。自分を過剰に良く見せようなんてそんなに思わず、人に広まりたいとも思わない。ただ自分の表現として文章を書く場があるということが大事だった。文章を書いて、そのことによってそれを読んだ人の中のわたしの像が書き換わっているかもしれない、と想像するのはなんだか楽しいことだ。具体的にこう書いたらこう思われるだろう、なんて、そんな大それたことは全然思わなくて、ただ、漠然と、表現をすることが楽しいのだ。
 表現をするということはそういうことなんだ、といまになって思う。
 読んでいる人がいるかもしれないとただ思うだけで、実際に読んでいる人がいるかなんて、わからないことなのだけれど。
 ぼくはぼくの表現によって、いつも自分を書き換えていく。それは書くことに限らず、ありとあらゆる行動や振る舞いや仕草や、ものの言い方、表情や、匂いや服装や髪型や、もう、ありとあらゆる「わたし」を用いて、自分を更新していく。考えていることは時に文章になるし、行動や振る舞いや仕草や、ものの(以下略)になる。
 つまりなにが言いたいのかっていうと、この文章やこの文章群を読むことについて、ぼくとあなたには多生なりともおそらく縁があって、こうしていまこの文章を読み終えつつある。こういうメタ描写をしてしまうことにすら嫌悪を抱く人がいそうだけれど、まぁ、それはそれとして、あなたはとにかくこの文章を読んだ。この文章を書くことによってわたしはわたしの一部分(あくまでも一部分)を表したし、書いたわたしという人間の印象について読んだあなたが何かを書き換えたのだとしたら、あなたも変わっているということなのではないか。つまり、読んだあなたもこの文章を読むことであなた自身を書き換えたかもしれない(あるいはなにも起こらなかったかもしれない)。
 読むことで自分を書き換えることこそが、ぼくは読むことの楽しみだと思う。書くことで自分を書き換えるとういことだって、もちろんある。そういうことをしていたいわけです。だから、文章を公開する必要がある。それもなるべくあけすけに書いていたい。
 なにが人に文章を読ませるのか、って、それによって自分が変わるかもしれない、と思うからだろうと、ぼくは思う訳です。