どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

書くことについての、女と男のお話

「ここ、『ろ』が『る』になってる」
 スマホの画面に目を落としたまま、その人は言う。ぼくはぼくの書いた文章をざっと見返してから、苦々しく応える。
「あ、本当だ……」
 これが良い機会だと、彼女がまくし立てる。会うのはもう10年ぶり。近況を話し合うこともなく、ただ書いたものについてしゃべる。
「あと、一つの文章に書くことは一つにしなよ。そんなに何個も何個も書いても、伝わるわけないじゃん。関連していることでもないし。ただ思いついたまま書かない方がいいんじゃないの。何が言いたいのかわかんない」
 ぼくはニコニコしたまま応える。この人の言うことに嘘はないとわかっているから。なんの思惑もないとわかっているから。遠慮がないのも相変わらずだった。そう思わせてくれることが、ありがたかった。
「それはわかってんだけど、書きたいことをどんどん書いていたいんだよ。でも、それって脈絡なくて、意味不明だよね」
「表現されていることが全てなんだから。読んでいる人は都合よく読んではくれないし、書いてあることを理解しようと努力なんてしないのよ。あんたのことに思いを馳せたりもしない。ただ、みんな楽しみたいってだけ。それだけ」
 この人の、楽しみたい、と言う言葉は重い。ぼくはずーっと、この人を楽しませたいと思っていたのかもしれない。なんだかずっと、空回りしていたような気がしてる。
「誰にでもわかるように書くのが一番むずかしいって、ずっと前に言ってたよね」
「だから、文章はなるべくシンプルに。一つの文章で言いたいことは一つだけ。自分の能力をわきまえなさいよ」
 この人は、何かを読み取ったのかもしれない、そう思えるだけでも、ぼくには救いだった。
 自分で自分に言いたいことは、きっと誰かにも言いたいこと。あるいは、誰かが誰かに言いたいこと。
「一度何かが湧いてきたら、それはその時のものなんだ。その時にしか書けない気がしてしまう」
 ぼくはまた、欲望を撒き散らすようなことを言ってしまう。
「本当に書きたいことを選択しなよ。書くのはあんたの勝手。読む人は、何も求めてやしないのよ。ただ面白がりたいってだけよ。そうできなければ、読まれなくなるってだけ」
 こう言う突き放した言い方に、嫌味を感じない。ネットのコミュニケーションでは、たぶん、こうはいかない。それはぼくがこの人のパーソナリティを知っているから。この人の言ったことをぼくがどう受け止めるのか、この人は知っているから。
「ぼくの中に、確固たる書きたいものがないのかもね。強烈な意思が。これをいま書くべきだってのが。なんだって書けたらいいと思っているだけなのかもしれない」
「それは、あんたの欲望を叶えているというだけで、そんなもの、誰も読みたくないのよ。せめて、読んだ人を心地良くさせなよ。それは全ての表現者の義務よ。シロートだとかそんなこと、関係ないわ」
 自分の欲望だけを叶えようとする醜さや露悪さを、自分ひとりで気がつける人がいるってことを、ぼくにはまったく想像ができない。
「書きたいって欲望だけでは、書き続けられない。価値のない人間になるのが、怖いんだ」
 裸になってベッドで腰を振り合ったってわけでもないのに、なんでこの人にこんなに率直になれるのか、わからない。
「書くことだけがすべてじゃないわ。誰にとってもね」
 この人の言葉は、いつもとても優しくて。だから、甘えてしまう。
「書くのは楽しいよ。ぼくは君を失うのが怖いんだ」
 また、人を困らせるようなことを言ってしまった。書くことも、しゃべることも、自分にとっては同じ欲望──醜い欲望──に依っている。同じ人間から発せられているのだから当たり前。それによってぼくはこの先もずっと救われない気がしている。
「そう……。」
「伝えられないしんどさとか、伝わらない葛藤を、ぼくはなんとかしたかった。楽になりたかっただけなのかもしれない」
「そうね」
「今だってそう。伝わらないものだ。だけど、伝えたいんだ。たぶん、誰でもない、誰かに」
 ポロポロとこぼれ出てくる言葉に、自分で驚く。こんなこと考えていたのか。
「足掻きなさいよ。それが役に立つかなんて、誰にもわからないわ。誰にも、人がなにを知っていて、なにを考えていて、なにをできるのかなんて、ちゃんと分かりっこないんだから」
「そうだね。」
「みんな、楽しもうとしている。それだけなんだよ。そのことを忘れちゃだめよ。いい?」
 ぼくは無言で彼女の言葉を反芻していた。何かを認めた彼女は、席を立ってから、言葉だけを残して去っていった。
「わたし、もう、行くわ。じゃあね」
 久しぶりに彼女と会ったこの喫茶店に、また、ひとりで来ようと思った。