どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

美しいから、君に見せたい。

「美しい、君に見せなくては。」って、でも、僕はそれ以上に美しいことを知ってしまった。
 誰かに美しいものを見せたいという、そういう欲求はほとんどなくなってしまった。自分自身が、美しいものを堪能することで精一杯になってしまっている。
でも、「美しいこと」を人に見せたくなる気持ちこそが美しいとは思っていると思う。「美しいこと」を独り占めすることは美しいことではないのかもしれない。醜いのでは。
「これを自分は美しいと思う」ということを人に示すとことが、必要ないんじゃないか、と思っているのだと思う。ただ、自分一人で美しがっているだけで十分なのだ。それだけで満たされている。それだけでいい。
 人として退化しているのでは。
 堪能することについて、それを人と共有しないことは、自分から人との関係を絶っている。自分からこれを人に伝えても伝わらないだろう、どうせわかってもらえないだろう、言っても仕方ないことだ、そう決めている。自分でそうしないことに決めているのだ。言い訳している。
 しゃべることができなかった時には、それをしたいとずっと願っていたのに。そして、それをネットという距離のあるやり方にせよ、やっていたのだと思うのだけど。
 今になって思うのは、ネットの人に美しいものを見せたい人はいなかったんじゃないか、ということ。ただぼくは、自分がこう感じた、こう堪能した、ということを誇示したいだけだった。ネットにいる私にとっては誰でもない誰かに投げつけているというだけに過ぎなかった。
 でも、それは不毛なことではなかったとは思う。
 でも、まぁ。
 堪能することにとても満たされている。それを共有したい人が現れたなら、勝手に人に見せるのだろう。それはこういう風に美しがっているということを誇示したいということでもなく、ただ心の中から溢れ出してくるウキウキ心が自分に行動させるのだと思う。
 ネットの人たちに評判が良くなかったのは、きっと、ぼくの堪能している気持ちが伝わらなかったのだろう、と思ったりする。あるいは、私の筆力では魅力的に映らなかったのだろう。なんか、そんな気がしている。別にそれでもって私自身を魅力的に思ってもらいたい、なんて意識して思っていたわけでもないのだけど。でも、誇示していたのは自分の美しいと思っていたものではなくて、自分自身だったんじゃないか。
 「書く」という行為の目的が明確ではなかった。
 なんだかそんなふうに腑に落ちた。
「美しい、君に見せなくては。」って、でも、僕はそれ以上に美しいことを知ってしまった。
 ただ、美しいものを美しいと思っていたらいい。それは、誇示しようとしなくても、勝手に人に伝わる。伝わるべき人に伝わる。伝わるべき人って、そうあるべきところにいる人だ。伝えたいと思っていたら、きっとその人を“近く”にいてほしいと思うだろうし、この人のことを知りたいと思ったら、勝手に”近寄って”
くるものだと思う。そういうことをなりふり構わずに躊躇しない人が、ぼくは好きだ。
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「人間」ということをよく考える。
 失態も、醜態も、劣っていることも、人としての欠陥でさえも、美しい。そのことをその人自身がどう受け止めているのか、ということの方がよほど大事なのだと思う。どんなに優れていても、美しくない人もたくさんいそうであるもの。
 ぼくは、「美しいこと」をとにかく知りたかった、見たかった、堪能したかった。いまでも知りたいし、見たいし、堪能したい。
 そして、それを人にも知らせたかった、見せたかった、堪能して欲しかった。
 人とポジティブなことで心を通わせることは、本当に心地の良いことだから。だって、それがこの世に生きているってことの醍醐味なのだとわたしは思う。それが、今を生きているという実感なんだから。それを失ったら、生きていても、生きていないと思う。
なんか、そんな感じです。

わたしが書く理由

なんで書きたいのかって、
「言葉を話すことができない」ということを実感を持って人に伝えたいから
なんじゃないのかなー、と思う。しゃべれなくなったことについて、誰を恨んでいいのかわからないし、恨んでいいわけでもないけど、なんか、そのこと昇華したいんだよね。自分の中で。供養したいっていうか。それは呪詛みたいなものかもしれないし、もっと違うものかもしれないけど。
 基本的には読んだ人に楽しんでもらいたいと思ってるし。
「言葉を話す」って、今だに不思議な気持ちになったりしてるけど、普通の人にとって当たり前のことがぼくにはそうではないから(なかったから)、そのことを押し付けがましくなく、「しゃべるってことは良いものだ!」って書きたいんだと思う。
つまりは
「言葉を話す」ということを実感を持って人に伝えたいんじゃないのかな。
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 言葉を話せてもディスコミュニケーションはあるし、話せなければ当然にある。最近は、「言葉を話すこと」のディスコミュニケーションについてなんだかぼんやり考えてる。
 相手を知ろうとしなければ、簡単に齟齬は生まれるし、好きだから生まれてしまう誤解もある。人は基本的にその人の取りたいように都合よく受け取るから。なんか誤解されてるなー、っていう時に、それを解こうとしない、とかさ。そもそも誤解されていることにも気がつかないとかさ。この人とはもう無理だ、とかさ。言ってもしょうがない、とかさ。そもそも聞いてないとかさ。聞こえてるけど聞いてないとか。伝えたけど、伝わってない、とかさ。
 基本的にはみんなどうでもいい人のことはどうでもいいし、気になる人のことは喫茶店で横になっただけでも耳をそばだてる。
 「言葉を話す」ってことの面白さは、話している時の表情とか、言い方のニュアンスとか、自信がありそうな言い方とか、そもそもの話す人のキャラクターとか人格とか、そこにあるとてもたくさんの「言外の」情報にあると思ったりもする。ただ情報を伝達するというだけでもない。なんかを受け渡してる。例えば、「愛」みたいなもの。嫌悪も好意も、もう、その人が自分をどう思っているのかなんて、たちどころにわかってしまう、こともある。あるいは、その人自身をその人がどう思っているか、だとか。話題に上がっていることや人を“本当には”どう思っているか、だとか。こんなこと書いたら、喋ってくれる人がいなくなりそうだけども。
 だけど、だからこそ、しゃべるのは面白いなー、と思ったりする。
 いろんな人と接するうちに、こういう気持ちとか状況の時に、人はこういう言い方をする、こういう仕草をする、こういうニュアンスを組み込む、みたいなことが溜まってきたし、元々持ってたアイデアも含めて、何か書きたいなー、という感じ。
 というか書く。
 書かないと気が済まない。
 別にそれは今でなくてもいいのかもしれないけれど、やらない理由や言い訳はいくらでも、いつでも出てくるんだから。
 こういうことを実感を持って書けるのは、この世界に自分だけなんじゃないかと、不遜ではなく本当に思ってる。だから、書くべきだと思う。
「言葉を話す」ということの歓びを自分には書けるんじゃないか。それも、実感を持って。それは、それだけは誰にも真似され得ないし、自分だけのものだ。だけど、誰でも普通にやっていることだ。気が付いていないだけで。だからこそ、面白いものができるんじゃないかと、思ってる。
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(友人へのメッセージからの抜粋と追記)

えんむすび

 年頃の娘が縁結びの神社巡りに熱心になっている。
 縁なんて、どうせ交通事故みたいなものでしかない。出会った瞬間に出たとこ勝負で見極めて、飽きないうちにくっついてしまうのが一番いい。そこから先はいかに諦めるかなんだ、なんて口が裂けても娘には言えない。
 娘が小さい頃には、お父さんとはどこで出逢ったのかをよく訊かれた。運命的な出会いであるわけもなく、ただ社内恋愛して結婚したってだけの人。とりわけ悪いところもないし、さしていい人というわけでもない。
 娘は、いい人と出会いたいらしい。いい人ってどんな人、と訊くとなんだかはっきりしない答え。とにかくいい人と出会いたいらしい。
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 縁結びのご利益もさほどなく、近場の神社にも行き尽くした頃。娘は、近所にぼりの立っている小さな祠を見つけたらしい。のぼりには大きく朱に白字で「縁結」。こんな祠が今まであっただろうかと思うくらいに小さな、存在感のない社。石置にお賽銭を置いて、ひと拝みしていると後ろには人の気配。どうも娘の順番を待っている様子。振り向くと男の人。身体を半身に避けて、相手を通しつつ、じっと見る。相手も、自分を見ている。0.2秒くらいの間にいろんな思考が駆け巡る。一触即発の空気。
 ここで声を掛けられたなら、なにも断ることができないな、と娘は思ったそう。だって、縁を結びたい人にしか用のない小さな祠に熱心に拝んでいるところを見られて、そして、その人も縁を結びたがっている。互いの脳みその中ががダダ漏れ、筒抜け。
 その人が手を合わせている間、待っているのも変だし、娘は靴紐を結ぶふりをして様子を伺っていたんだけど。青年はノーモーションでパッと振り返って、娘との距離を詰めて一言。
「前にも、どこかでお会いしましたかね?」
 その人は遠慮がちに、でも真摯に言ったそう。
「お会いしたことはないと思いますけど、なんだかそんな気が全然しませんね」
 娘はなるべく動揺を隠したまま、応えて。
***
 その後の話は割愛。
 孫が可愛くて仕方がない今日この頃です。