どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

あえないはなし

【ぼーいの】
 美味しいものを食べようとするたびに、あなたとこれを食べられたらいいのに、と思う。
 良い音楽を聴くたびに、あなたはこれを聴いてどう思うのか、問いたい気持ちを抑えられない。
 お気に入りの映画が増えるたびに、君とこの気持ちを同じ時間・空間に共有する機会を逸したと、悔しくて仕方ない。
 でも、君はここにいなくて、よもや、会うことも適わないかもしれない。
 そのことが、この人生の今までの出来事の中で、一番の悲しいことだ。本当に、それはおおげさではなくて。そんな気持ちになってしまっている。
 ぼくが君と会うとしたら、それはまたぼくの体調が悪くなって、病棟に入院するということで、それは、もしかしたら、あなたにとっても不幸なのか幸福なのか、わからないことになるんだろう。そう考えてしまうと、なんともやるせなくて、それだけで、ぼくの体調は悪くなってしまいそうだ。
 自分を守るためにも、彼女のことを考えない方がいいと、思ったりする。体調は日々快くなったり、悪くなったりを繰り返していて、どうにも安定しない。思えば、入院が長引いたのも、あの人に原因があったのかもしれないと、ぼくは思ったりしている。なんて、情けないのだけど、そんな風に人のせいにしたくなってしまうほどに、ぼくの心は荒んでいる。
 とにかく、なにか心地の良さそうなイベントがぼくの前に現れるたびに、君のことを思い出して仕方がなくて、それからその0.5秒後に、やるせなくて、情けなくなる。彼女はいじらしくて、彼女を思い出すたびにこの胸を掻きむしられるみたいだ。もう、いっそ、彼女のことも忘れて、”健康に”暮らした方が良いだろうって気がする。この、本当の意味で病的な情動を、ぼくはどうすることもできなくて、それで、ぼくは自分を、どうにかしたくなってしまう。冷静でいられるだろうか。後戻りできないことを、あの人を困らせるようなことをしてしまいそうで、自分が怖い。ぼくは自分のことを、情けないと思っている。不甲斐ないと思っている。

【がーるの】
 彼が私の勤める病院を退院してから一ヶ月以上経ってしまった。私の束の間の休みの間に、彼は何も言わずに退院してしまってから。
 挨拶も何もできないままに私の前から彼はいなくなってしまった。
 その二週間後に彼が救急入院したと聞いたけれど、当然のように彼に会いに行くことも叶わずに、ただただ心配することしかできなかった。
 取り乱す私を見たら、彼は私のことを幼いと思うだろうか。そんなこと、気にすることもなく、他の看護師を憚ることもなく、私はあたりまえに取り乱していた。
 彼はまたいつの間にか他の病院に転院したらしい。センセイの話だと、その転院は待機というだけで治療のためにまたこの、私のいる病棟に戻ってくるという話だ。
 正直、そんなことは起こらない。
 彼がこの病棟に戻ってくる決断をするということは、彼がこの病棟にいた3ヶ月間の、私たちの病棟での様々を評価されているということなのかもしれない。このセンセイに、この閉鎖環境。
 私に希望はない。そんな気がする。
 というか、彼の現在の病状も何もわからないまま、私は悶絶し、苦しんでいる。
 彼が私の前に現れるということは、彼の病状は悪いということで、それは間違いなく彼にとってはよくないことで、私はそのことをよろこぶわけにもいかず、たぶん、笑顔にもなれず、ただただ、彼が快くなることの手助けをするしかないのだろう。
 彼がここに来ないということは、彼の病状は快くなったということで、そのこと自体は間違いなくよろこぶべきことなのに、それでは私は彼と会うことは叶わない。
 自分の不甲斐なさをノロう。そういう形でしか、彼と会えないこの運命を、本当にウラみそうになる。しんどい。
 私の気持ちが本当なら、私はどうなっても不幸になってしまう気がする。どうあっても浮かばれないような気がしてしまう。

【或いはふたりの】
 あの人と偶然に街で会わないだろうか、って、繁華街を徘徊したりした。人と人が偶然に、なんの約束もせずに会う確率なんてたかが知れていて、それこそ、そんなことがあったなら、奇跡なのだけど。同じ時間、同じ場所に計ったようにいなくてはならないなんて、そんなこと、あるだろうか。その時にあの人のことを気づけるだろうか。
 人と人のつながりみたいなことを、最近はよく考える。縁というものはどうしようもなくあって、こうして会えないのだとしたら、それはやっぱり、縁がないということになってしまって、その現実を受け入れることが、どうしてもできそうにない。

愛するきかい

 ただ、自分は不幸だ、とひとりで声高に叫んだとしても、それを本当に聞き入れる人はいない。ただ、自分が不幸に落ちていくだけなんだ。
 不幸にどれだけ抗っているかというと、たぶん、そんなことはなくて。ただ、自分のことをかわいそうな人として扱って欲しいだけの、構ってほしがりの、寂しがりに過ぎないでいる。たぶん、ずっと、そうだ。
 頭使って、行動して、人と会って、そうやって、不幸を回避しているかというとそんなこともない。そんなそぶりもない。ただ、かわいそうな人でいたいだけなのだ。できるだけお金を稼いで不幸を回避しようとしていない。人と会うことで自分を慰めるというわけでもない。人に相談するわけでも、もちろんない。人を頼ることをしない。そんな人間は、もれなく不幸にちがいない。
 寂しさは降り積もる。独りでいることにどんどん慣れていく。人と愛入れなくなっていく。そうやって自暴自棄になって、自分を責めたり、他人を責めても、自分自身が狭く、小さく、か細く、なっていくだけ。自分に抗うことは、それはつまり不幸に抗わないということで、そして、自分のしたいことを見て見ぬ振りして実現しようとしないということだ。
 私の人生に現実感がないのは、そんなことに由来している。私は、現実から逃げている。何をするのにも、自分の自尊心を満たすことはなんなのか、いつも考えているような気がしている。どうやったら自分の見栄が保たれるのか考えているような気がしている。
 私は、現実を、見誤っている。
 誰かといたら、それだけで幸せになるということはないのだろう。この仕事をしていたら、それだけで幸せになるということはないのだろう。何かをしていて、それだけで幸せということはないのだ。ただ、不幸を回避することはできるかもしれない。人生とは本質的に困難なものだ。
 見据えた現実の先にあるものは、なんだろう。なにをしたから幸せだってことはたぶんなくて、ただそうあるだけで、それで自分はどうなのか、というそれだけなのだと思う。
 あなたを愛する機会を欲しい、と切に思う。今度こそ、と思っている。私にあなたを愛させてもらう機会をくれ、と思っている。幸せとは、そんなものなのかもしれない、って思う。

こころが通うということ

 人には、脳みそだけではなくて、心だってあるのだって、最近になってやっとわかった。心が通うから人は瑞々しくいられるし、自分を保っていられる。いきいきと生きることができる。心が通っているとわかるから、独りだとしても、寂しく感じないかもしれない。
 頭で考えたことが人間のすべてではないってこと。人間の行動に付随する感情には確実なことなんて何ひとつとしてない。こうしたから、こう思っている、なんて、その人以外にも、自分以外のことについても、全然わからないことだ。
 それは、あの人といたらドキドキする、ってことだ。
 それは、あの人のことを考えたらドキドキする、ってことだ。
 あの人のことを考えていたら、独り寂しい夜だって、豊かに過ごせる、ってことだ。
 あの人と一緒にいられたら、どんなに幸せだろうって、心から願うってことだ。
 そういうことは、頭で考えるようなことじゃない。勝手に、心で思っていることだ。
 こういうこと、当たり前の人には当たり前なのかもしれない。でも、ぼくは最近になってやっと、わかった。
 この世界に、理屈ではないことがあってよかった。
 この世界に、理屈ではないことがあるって、わかってよかった。
 この世界に、理屈ではないことがあるって、理屈ではなくわかってよかった。
 感覚として、自分の中に堪えきれないなんらかの衝動みたいなのものがあって、どうしようもなくなってしまう。あなたと会うためなら、どんな犠牲も払わないような気がしてしまって、ときどき怖くなる。あなたと一緒にいるためなら、いつか死んだっていい。あなたの胸の中で死にたい。どうせいつか逝くのなら、わたしはあなたと一緒にいたい。
 人の行動と、想いは、一対一対応だと思っていた。脳みそで考えたことが人間のすべてだと思っていた。
 これは、過去の自分への裏切りになるだろう。
 考えたことが、人間のすべてだと思ってた。頭で人のことを好いてた。
 でも、たぶん、人間ってのは、そうじゃない。物語とか教訓話によくある、心ってのがやっとわかった。頭でなく、人を心で想うということがあるんだと。心が反応してしまうということがあるんだと。理屈でなく、心が動くってことがあるんだと。
 こうなってしまったら、ぼくにはどうしようもない。ただ、満たされるまで、ぼくは渇望し続けるのだろう。たぶん、逝くまで。
 それと同時に、こころを与え続けていられたらいい。
 ぼくの心がどうやったら、満たされるのか、わからない。わからないけれど、与えるこころ、愛する心だけは渇きたくない。そうできたら、きっと、この先はずっと幸せだろうって感じがしている。たぶん、きっと。