どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

大事なことを大事だと思うことについて

 どうでもいいとばかり思ってきた人生だった。いろんなことを。いろんな場面で。いろんな階層で思ってきた節がある。どうでもいいと思いつつ、なんとか生きてこられたのは、それでもなんとなく生きてきたわけじゃなくて、一応は、なんとか生きようとしたってことだと思う。生きることを選択し続けた結果。
 わたしは、いろんなことをどうでもいいと思っていた。友達付き合いも、恋愛も、結婚も、ひょっとしたら生活そのものも、あらゆることをどうでもいいと思ってきた。その方が生きやすいと思っていた節がある。いつの間にか、ぼくの心は弱っていた。なんでも甘えるようになっていた。自分の力で生きる力を失っていた。か弱い力でなんとか生きているだけだった。
 そんな人間に、楽しみなどない。喜びもない。ただ、何もない日々があるだけだった。生きていることについて、いろんなことをどうでもいいと思う人間に、楽しみなんてないのだ。だって、どうでもいいから。適当に過ごして適当に生きている。それで楽しいわけがない。
 弱くなった心で、ぼくはたくさん病んだし、生きるのもつらくなった。弱り切った心は、僕をどうにかすることもなく、ぼくはただ甘えるばかりだった。弱い心は、いろんなことを人のせいにして、自分を硬く閉じ、そうしてなんとか生きているだけだった。ぼくは、いろんなことを人のせいにしてきた。自分の責任を人に押し付けて、なんとかしてもらおうとしてきた。でも、そんな理不尽に応える人なんていない。そうやって、ぼくは一人になった。それすらもどうでもいいと思っていた。自分を肯定し続ける日々。生活なんてなかった。幸せも、喜びも、楽しみも、なかった。
 心が弱いから、いろんなことをどうでもいいと思うのか、どうでもいいという気持ちが自分の心を弱らせるのか、わからない。でも、相互作用的に、ぼくの心は弱くなり、いろんなことをどうでもよくしていった。人生は壊れていた。
 人生に大事なことのない人はいない。きっと、生きている限り、何かが大事であるに違いない。それから目を背けているだけで。大事なことをどうでもいいと変換してしまう人生なんて、人生ではない。ぼくは、そうしてしまっていた。大事なことを、大事と思えないことは、ぼくの人生を壊した。その勇気がなかったのか、そもそも、どうでもいいと思うってことは、そういうことなのか。ぼくにはわからない。答えはない。とにかく、ぼくはいろんなことをどうでもいいと思ってきた結果、大事なものをたくさん失った。それでも、いろんなことに執着しているのだから、たちが悪い。ぼくが負うべきだった責任を、負わされる人たちに、ぼくは執着していた。いろんなことを人のせいにしてきたツケが回っていることにも気が付かずに、ぼくはいろんなことをどうでもいいと思い続けていた。ぼくは成長しなかった。精神的に弱いままだった。
 精神的な強さなんて、そう簡単に変わらない。でも、大事なものを大事だと思うことはできる。どうでもいいと思ってしまう自分を変えることはできるかもしれない。どうでもいいという気持ちは、諦めであると思う。あるいは面倒くさいんだろう。自分の弱さを負い切れない自分はどうでもいいと思うことにして、人のせいにして、逃げた。そういう弱さを持っていた。
 いろんなことが本当にどうでもよかった。それでも、生きてこられただけ、マシだったのかもしれない。なんとか生きることができている。その上で、思うことがある。どうでもいいことなんて、この世界にはないよ。大事なことばかりだと思う。それでも、時間の制約、自分の手の数から、しかたなく蔑ろにすることはあるかもしれない。でも、だけど、どうでもいいことなんてない。揺るがせにしていいことなんて、ない。なんだって、この世界にあるものは、平等に、ぼくにとって大事なものだ。どうでもいいことなんてない。大事にするというその行為を、ぼくは大事にしたい。どうでもいいと思う心を消し去りたい。その面倒くさいと思っている自分を殴り飛ばしたい。大事なんだ、ってことを、肝に銘じて、生きる。そうしたら、楽しいことが待っていると思う。幸せな人生があるんだと思う。少なくとも、今よりは、ずっと。

いつかたぶん猫になる日

 猫になったらどうだろう。生きていることのいろんなことを感じなくて済むだろうか。猫は猫でしんどいのだろうか。「どうなんだい?」
 猫になろうと、努力したって、なれるわけじゃない。でも、猫みたいになれるかもしれない。猫として生きるのではなくて、たぶん猫になる日。
 人としての楽しさをまっとうできない人から次々と猫になっていく。猫として生きることを義務付ける法律。猫として生きる権利。猫として生きるとして、後戻りはできない。再び人として生きることは適わない。一旦猫になったなら、そのまま、猫でいてください。そういう猫がこの世界にはたくさんいるのだ、なんて妄想してたら、とても楽しい。
 猫は昔は人だった。人として生きることをやめた人が猫になる。だから、猫は人の真似をしようとする。また猫から人に戻りたいという未練がそうさせる。でも、それは許されない。
 やたら人懐っこい猫は人間に人として恋している。愛情を持っている。つんとしているふりをしても、ごまかせない。人に恋している猫っている気がする。そう思うとやっぱり素敵に思う。
 猫の野生を見るとやっぱり嫌だなと思う。猫みたいに生きてることが羨ましいと思うのは、人の世界に住んでいる猫を見るからだ。猫は猫でやっぱり厳しいんだろう。そう思って猫に訊いてみる。
「ネコって大変?」
「にゃあ」
 わかったような返事。「にゃ」とつづく。
「ぼくもネコになろうと思うんだけど、いい?」
「にゃあ? にゃ」
 そっぽを向かれてしまった。お前にゃ無理だと言われたみたいだ。人間もおぼつかないのに、猫になろうなんて、舐めてんじゃねー、という感じだろうか。世界の複雑さはその生きる困難さに比例しないだろう。僕たちにはわからない困難さがきっとあるに違いない。
 そうなのだ。生きること、そのものが同様に困難なのだ。どんな形態だろうとも。生きることを難しくしているのは人間であって、そして猫であって、互いにそれを羨ましがっても仕方ない。人は人として生きるし、そして、それはたぶん困難で、猫にもそれは同じだろう。誰にとっても、生きることは難しい。そこからスタートしないことには、たぶん猫になる日なんて、とうてい来ないのだ。

帽子をかぶる

 帽子をかぶることを、唯の日除けと思っていた。日光から自分を守るためにそれをかぶるのだと。
 小さい頃に、日射病になったことがある。その時だろう、はじめて帽子というものを意識するようになったのは。夏の、暑い日差しにさらされ続けると、人は体調を崩す。その対抗措置として人々はいろんな防御策をこうじていて、その一つが帽子をかぶるということなのだ、って。たまたまかぶらなかった帽子のことを母に言われた時に、わたしは、うなだれた。たかが帽子と思ってた。それでも、帽子だった。
 こうして大人になってみると、帽子が守ってくれるわたしというものは日差しからだけではないとわかる。帽子は明らかに、わたしを守っている。いろんなものから。帽子を使って目線を切ることができる。お座なりになった髪の毛を帽子は優しく包んでいる。帽子とのマッチングで服装を考える。持っている帽子によって服装はだいたい決まる。どうでもいい時にかぶる帽子がある。そういう時は、服装も大抵どうでもよくて、わたしは気を抜いている。そういう自分をさえ、帽子は守ってくれる。帽子をかぶることで、わたしはわたしであることを拒否できる気さえした。誰も、わたしがここをこうして歩いているなんて気がつかないだろう。ただ、人が歩いているだけになれる。そんな気がした。
 なんで人は帽子をかぶるようになったのか、なんとなくわかる。日差しを避けるだけではなくて、自分をさえ隠さんとするためだろう。そうして、都合のよい人間でいられる。何者でもない、自分ではない自分。
 帽子をかぶることで、頭の形の見た目がわからなくなる。どんな頭をしているんだろうと、気に留めなくなる。ごまかすことができるのだ。そうやって、わたしは帽子をかぶって過ごしてきたような気がする。いろんな局面で。お洒落をしているつもりなのだけど、どこか自分を誤魔化している。そのための言い訳は充分に用意されている。どんな言葉も通じないだろう、いろんな放言をやり過ごすことができる。どこにいたって、帽子は役に立つ。わたしとは違う。
 わたしは、自分と向き合わずに過ごしているのかもしれない。帽子をかぶることによって。帽子は、わたしがわたしであることを拒否していることの象徴かもしれない。どこに行ってもかぶる帽子を使って、わたしはわたしでなくなろうとする。いろんなことの発端が、この帽子にあるような気になってくる。帽子なしで、外を出歩くことがなんだか怖いような気がする。偏執的かもしれない。
 家に入って、帽子を取る瞬間、なんだかほっとしているような気もしている。家に帰ってきた安堵というよりは、自分を開いている快感なのかもしれない。家族にだけ見せることのできる自分。あるいは自分の頭部。自分をさらけ出せる相手の、なんと少ないことか。わたしはそんな自分でしかない。
 どこに行っても帽子をかぶっている。それを取る時間はそんなにない。あくまで失礼にならない範囲でしか取らない。そうやって過ごしている。帽子が自分の身体と一体になったようだ。
 帽子はわたしを守っている。日差しからではなく、人間関係から。親しい人と歩くにしても、帽子をかぶることによってわたしは距離を保っている。どうでもいい人と、どうでもいい会話をしながら、わたしは帽子を視界に入れている。帽子をかぶることによって、わたしは本当のわたしを隠している。
 ある日、ある人と歩いていると、帽子が風に飛ばされてしまった。夏の、海辺だった。あっ、と思った瞬間には、帽子は遥か彼方に在った。その次の瞬間には、この人なのだ、と思った。わたしが心を開くべき人は。そう、誰かが教えてくれたのだと思った。そう思うことにした。それで、いいと思った。
 それ以来、その人と会う日は帽子をかぶるのをやめた。他の人とはやはり帽子をかぶっている。帽子をかぶらない日は、特別に気合いを入れる。髪型も、メイクも、服装も、いつもと違う自分であることを実感する。この日の、この人のための、特別な自分。さらけ出した自分。自分を受け入れて欲しい自分。そうしてくれるだろう予感。嘘じゃない。ああ、だから、こうして幸せなのだ。