どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

いつかたぶん猫になる日

 猫になったらどうだろう。生きていることのいろんなことを感じなくて済むだろうか。猫は猫でしんどいのだろうか。「どうなんだい?」
 猫になろうと、努力したって、なれるわけじゃない。でも、猫みたいになれるかもしれない。猫として生きるのではなくて、たぶん猫になる日。
 人としての楽しさをまっとうできない人から次々と猫になっていく。猫として生きることを義務付ける法律。猫として生きる権利。猫として生きるとして、後戻りはできない。再び人として生きることは適わない。一旦猫になったなら、そのまま、猫でいてください。そういう猫がこの世界にはたくさんいるのだ、なんて妄想してたら、とても楽しい。
 猫は昔は人だった。人として生きることをやめた人が猫になる。だから、猫は人の真似をしようとする。また猫から人に戻りたいという未練がそうさせる。でも、それは許されない。
 やたら人懐っこい猫は人間に人として恋している。愛情を持っている。つんとしているふりをしても、ごまかせない。人に恋している猫っている気がする。そう思うとやっぱり素敵に思う。
 猫の野生を見るとやっぱり嫌だなと思う。猫みたいに生きてることが羨ましいと思うのは、人の世界に住んでいる猫を見るからだ。猫は猫でやっぱり厳しいんだろう。そう思って猫に訊いてみる。
「ネコって大変?」
「にゃあ」
 わかったような返事。「にゃ」とつづく。
「ぼくもネコになろうと思うんだけど、いい?」
「にゃあ? にゃ」
 そっぽを向かれてしまった。お前にゃ無理だと言われたみたいだ。人間もおぼつかないのに、猫になろうなんて、舐めてんじゃねー、という感じだろうか。世界の複雑さはその生きる困難さに比例しないだろう。僕たちにはわからない困難さがきっとあるに違いない。
 そうなのだ。生きること、そのものが同様に困難なのだ。どんな形態だろうとも。生きることを難しくしているのは人間であって、そして猫であって、互いにそれを羨ましがっても仕方ない。人は人として生きるし、そして、それはたぶん困難で、猫にもそれは同じだろう。誰にとっても、生きることは難しい。そこからスタートしないことには、たぶん猫になる日なんて、とうてい来ないのだ。