どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

主体的に幸せであるということ

 ぼくは、今まで、主体的に幸せであろうとしたことがなかったような気がしてる。なんだか、そんなことに気がついた。気がついてしまった。
 ずっと、何かに救われたいと願っていた。誰かが救ってくれるんじゃないかと、他力本願だった。自分で、自分を、幸せにしようなんて、思ってもいなかった。
 ぼくは、ぼくを、幸せにしようとしていなかった。ぼくには幸せになる資格なんてないんだと思い込んでいた。思い込まされていたのかもしれない。
 ただ、流されるままにシアワセであっただけだった。思い込みはけっこう本当にそうなるものだ、と、つとに、思う。幸せになろうとしない人のことを、人はシアワセな人だ、と思うのだろう。だから、幸せにしようとしなくてもいいんじゃないか、と思ったりするのかもしれない。あるいは自分をもそう思い込んでいる。いまは、今で、シアワセだって。
 人は誰でも欠けているし、全然完璧でない。完璧に見える人の弱さみたいなものを、なんだかぼくは美しくおもったり、愛おしくおもったりする。
 幸せになろうとさえ思えないことの、その、呪いというのはいかに罪深いか。すべて大人は、オトナってのは楽しいものなんだ、と、子供らに見せつけるべきだって思う。大人って、楽しいんだぜ! っていう風に。幸せであろうと思えないことの根本は、そんなところにあったとおもったりする。
 だからといって反骨心みたいなものもなくて、でも、完璧主義で、なんだか、当たり前に幸せではないな、と自分のことをおもってしまう。
 いろんな価値観を通して、人は、ひとを認めたりそうでもなかったりできる。それでも、やっぱり、人はその人なりに幸せであろうとするべきだ。なるべく主体的に。積極的に。
 自分の幸せがなんなのか、なんて、たぶん、一生わからない。幸せのときに幸せとは思わないものなのかもしれない。ひょっとしたら今が十二分に幸せなのかもしれない。
 それでも。
 誰にでも、幸せになる資格があるはず。なんだか変なことを言っているのは周知しています。でも。やっぱり、ぼくは変だった。
 本を読むのも、映画を観るのも、音楽を聴くのも、全部受け身なんです。そういう類の幸せなんです。それは幸せです。そういうものを享受できさえすれば。でも、たぶん、幸せってのはそれだけではない。なにかに能動的に主体的に積極的にその資格を以って幸せになることもできるはず。自分から不幸せである必要なんてないのだ。
 人はいくらでも、ほんとうにいくらでも幸せになることができて。底なしで。積極的であれば、人はこの人は幸せでありたい人なのだ、とわかる。この人と一緒にいたら幸せになるのかもしれないと思う。
 厚かましくって意味ではもちろんなくて、ただ行動するってだけでもなくて、表現するってだけでもなくて。人に迷惑をかけない範囲でおこなっていくのは当たり前で。わがままになろう、ってわけでもない。そこらへんはぼくはぼくのことを心配していないけれど。
 ただ、ただ。いい感じで、ありたい。
 遠慮しすぎず、憚らず、不作法でもわがままでも甘えるってわけでもなく。
 幸せであろう、とおもうこと。それだけで、ぼくにとっては、大進歩だった。そこには資格もクソもなくて、ただ、幸せであるって状態があるってだけで。そのシアワセはまた簡単に藻屑となって消えてしまうのかもしれないけれど、それでも、そうあろうとし続けることで、幸せになったりするんだろう、と今はおもう。