どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

愛されるに値しないという決めつけについての一考察

 くちづけよりも性交よりも、交歓したいのです。これ、ダサいんかな。たぶん男として。あるいは人として。最近は「常識」を鑑みて生きようとしつつあるのだけど、「交歓したい」だけ、なのもそれからは外れているな。どっかに慢心があるんです。だからオカしいんだと思う。
 くちづけも性交も自分に見合っていない。経済的にも自分としての「常識」に於いても。自分はそうしていい人間ではないのだと、自分で決め付けている。
 だったら交歓だって見合っていないのかもしれない。交歓だって自分に許していないのかもしれない、心のどこかで。だからうまくいかないんじゃないか。人と接することをまだ忌避してるんじゃないか。
「自分は愛される資格のない人間だ」そう思っているのかもしれない。だけど、愛されたいと願ってる。だから、ひたすらに虚しいのだ。何をやっても虚しいのだ。満たされない気持ちをいつも抱えてる。愛される資格がないと思いながら、人に間接的にも関わっている自分は迷惑な存在なんじゃないか。とても自分勝手なんじゃないか。
 今思えば、「愛される資格がないと思い込んでいる」ことは自分にずっとあったことだったのかもしれない。ぼくに起きたいろんな出来事や齟齬、人とうまくいかなかった様々をそれで説明できる。そう腑に落ちたのだった。
 気がつかないうちに自分を罰している。それが真っ当でないことくらい自分にもわかる。
 きちんと愛してくれた人がいたはずなのに。それに応えられなかったのはきっとそういうことなのだ。人が自分に違和感を持つのはそういったところなのかもしれない。LINEの交換しても、何をどう言われたとしてもピンとこないのは、「愛される資格がないと思っている」からなんじゃないか。
 自分という人間そのものには愛される資格がないと思っているから、何かを書いてそれを認めてもらおうとするんじゃないか。
 自分は愛されるに値しないという決めつけについて、自分自身にできることはたぶん、その原因に成っていそうなことをひとつずつ潰していくことだ。なぜなら、愛を受け入れたいから。
 愛される資格がないと思い込んでいるからこそ、ちょっと親切にされるだけで勘違いしてしまう。愛をまともに受け取れない人間は、愛を魅せる人に素直なのです。でも、愛されるに値しないとも思っているわけです。そこがとても複雑で、いっけん矛盾しているようにみえる。ここがうまく伝わって欲しいのだけど。
 ぼくをオトすのはたぶんチョロいです。それだからこそ人に迷惑をかけてしまいがちなんだ、と思うわけだけど。つまり相手は全然その気がなくても、こちらは本気になってしまうかのような。面倒ですね、厄介ですね。
 まやかしでもいいから恋がしたいよ、なんて。10年もその気持ちを拒まざるを得なかったんだから。今から23の続きをするわけにはいかないにせよ、でも、そんな気分でもあるわけです。失われたものは取り戻せないけれど、これから始まることも当然にあるのでしょう。
 愛されるに値しないと決めつけているというのは、愛されるということを疑っているのです。自分にその価値があるだろうかと疑い、かつ、この人はきちんと自分を見ているだろうかとも疑っている。この辺は最近書いたこととも通じること。
 なにも疑うことなんてせずに、ただ愛してくれる人があるのなら、それを受け入れたらいいのにと、思ったりする。つべこべ考えすぎなんだよ、といろんな人のアドヴァイスが聞こえてきそうです。今日はこの辺でおしまい。