どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

帽子をかぶる

 帽子をかぶることを、唯の日除けと思っていた。日光から自分を守るためにそれをかぶるのだと。
 小さい頃に、日射病になったことがある。その時だろう、はじめて帽子というものを意識するようになったのは。夏の、暑い日差しにさらされ続けると、人は体調を崩す。その対抗措置として人々はいろんな防御策をこうじていて、その一つが帽子をかぶるということなのだ、って。たまたまかぶらなかった帽子のことを母に言われた時に、わたしは、うなだれた。たかが帽子と思ってた。それでも、帽子だった。
 こうして大人になってみると、帽子が守ってくれるわたしというものは日差しからだけではないとわかる。帽子は明らかに、わたしを守っている。いろんなものから。帽子を使って目線を切ることができる。お座なりになった髪の毛を帽子は優しく包んでいる。帽子とのマッチングで服装を考える。持っている帽子によって服装はだいたい決まる。どうでもいい時にかぶる帽子がある。そういう時は、服装も大抵どうでもよくて、わたしは気を抜いている。そういう自分をさえ、帽子は守ってくれる。帽子をかぶることで、わたしはわたしであることを拒否できる気さえした。誰も、わたしがここをこうして歩いているなんて気がつかないだろう。ただ、人が歩いているだけになれる。そんな気がした。
 なんで人は帽子をかぶるようになったのか、なんとなくわかる。日差しを避けるだけではなくて、自分をさえ隠さんとするためだろう。そうして、都合のよい人間でいられる。何者でもない、自分ではない自分。
 帽子をかぶることで、頭の形の見た目がわからなくなる。どんな頭をしているんだろうと、気に留めなくなる。ごまかすことができるのだ。そうやって、わたしは帽子をかぶって過ごしてきたような気がする。いろんな局面で。お洒落をしているつもりなのだけど、どこか自分を誤魔化している。そのための言い訳は充分に用意されている。どんな言葉も通じないだろう、いろんな放言をやり過ごすことができる。どこにいたって、帽子は役に立つ。わたしとは違う。
 わたしは、自分と向き合わずに過ごしているのかもしれない。帽子をかぶることによって。帽子は、わたしがわたしであることを拒否していることの象徴かもしれない。どこに行ってもかぶる帽子を使って、わたしはわたしでなくなろうとする。いろんなことの発端が、この帽子にあるような気になってくる。帽子なしで、外を出歩くことがなんだか怖いような気がする。偏執的かもしれない。
 家に入って、帽子を取る瞬間、なんだかほっとしているような気もしている。家に帰ってきた安堵というよりは、自分を開いている快感なのかもしれない。家族にだけ見せることのできる自分。あるいは自分の頭部。自分をさらけ出せる相手の、なんと少ないことか。わたしはそんな自分でしかない。
 どこに行っても帽子をかぶっている。それを取る時間はそんなにない。あくまで失礼にならない範囲でしか取らない。そうやって過ごしている。帽子が自分の身体と一体になったようだ。
 帽子はわたしを守っている。日差しからではなく、人間関係から。親しい人と歩くにしても、帽子をかぶることによってわたしは距離を保っている。どうでもいい人と、どうでもいい会話をしながら、わたしは帽子を視界に入れている。帽子をかぶることによって、わたしは本当のわたしを隠している。
 ある日、ある人と歩いていると、帽子が風に飛ばされてしまった。夏の、海辺だった。あっ、と思った瞬間には、帽子は遥か彼方に在った。その次の瞬間には、この人なのだ、と思った。わたしが心を開くべき人は。そう、誰かが教えてくれたのだと思った。そう思うことにした。それで、いいと思った。
 それ以来、その人と会う日は帽子をかぶるのをやめた。他の人とはやはり帽子をかぶっている。帽子をかぶらない日は、特別に気合いを入れる。髪型も、メイクも、服装も、いつもと違う自分であることを実感する。この日の、この人のための、特別な自分。さらけ出した自分。自分を受け入れて欲しい自分。そうしてくれるだろう予感。嘘じゃない。ああ、だから、こうして幸せなのだ。