どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

小さな冒険

 歩いていると、やたらとこちらを見てくる少年がいた。まだ幼い。3、4歳といったところだろうか。その子は母親と一緒に歩いているのだが、母親とは手を繋がず、自分の意思で歩いている。母親の少し前を歩いている自分のところまで、時たま追い越してはこちらを覗き込んでくる。見るたびに目が合う。どうも、幼い彼の好奇心の対象となったようだ。
 それは、彼にとっての小さな冒険と見えた。彼に私はその時、往く旅人に見えたのかもしれない。少年が母親とどこに行こうとしていたのか私には知る由もない。だけど。その楽しそうな顔を見ていたら、こちらまで楽しくなる昼下がりだった。
 少年は私を完全に追い越した後も、右へ左へ歩き回っていた。母親は心配そうについて歩いた。彼の中で、壮大な冒険が繰り広げられていたに違いない。大通りに出る際に母親に手を掴まれると少年はおとなしく母と共に歩き始めた。その後のことは知らない。
 私はそのまま公園に向かった。私の冒険は続いた。少年も冒険を続けたろう。少年の冒険が私に感染・伝播したのだった。私は散歩に出たはずであった。
 それから私は道を往き、また別の旅人に出会い、そして別れた。家に帰るまで冒険は続いたのだった。

つぎつぎと合う辻褄

 君と初めて出会った時、自分が生まれきてきた意味が、わかった。君と出会うために生まれてきたんだ。君と暮らすために、君と生きるために、私は生まれてきたんだと思った。
 やっと、だった。私は自分が生まれてきた意味がずっとわからなかった。仕事をしていても、趣味に時間を割いていても、なぜ自分は生まれてきたのか、生かされているのか、不明だった。死ぬことはなかったが、生きたいとも思っていなかった。なんでか自分は生きていて、そうしてなすがままに生きていた。仕事は楽しかったが、それなりだった。自分が生きる意味を問うまでもなく、ただ生きていた。
 わかったのはあの時だったろう。この人と一緒にいたいと思ったのもその時だった。喫茶店のカウンター席。横並びで座って、何気なく会話していた。あなたは自分の用事をそこでしていたようだった。私は友人がトイレに立つのを見送って、窓の外を眺めていた。ふと、雲行きが怪しくなって、雨がぽつぽつと降ってきた。私は傘を持っていたのでうろたえることもなく、ただ雨にたじろぐ人たちをぼーっと見つめていた。
「雨ですねー」とあなたは言った。
 私は、そうですね、とか応えたと思う。何かを諦めたようにあなたはうなだれていた。さっきまで晴れていた空を見つめている。
「今日は降らないと思ったのにな」とあなたはまた言った。
 はたから見ればどこにでもいる人だった。それまでは。あなたは、私にこう頼んだ。家に帰って布団を仕舞ってくるから、荷物を見ていてくれないか、と。見ず知らずの人にこんなことを頼むのはいかがなものかと思うが、家も近いし、あなたもトイレを待っているんでしょう。ちょっとの間だけ。もし店を出るのなら、それでも構わないから、と。私はそれを快く受諾した。いいですよ、なんなら一眠りしてきたらいい。今日はここでずっと打ち合わせなので。見ていますよ。あなたが帰ってくるまで。そう私は言うと、連絡先を取り出して、また言った。これを渡しておきますよ。何かあったら連絡してください。
 それを受け取るとあなたはその場を立ち去った。
 そして、その日はそのまま帰って来なかった。
 私はあなたの荷物を全て集めて、家に持ち帰ることにした。連絡先は渡してあるし、本当に寝てしまったのかもしれないと思った。そう思うとなんだか可笑しくなった。荷物はそんなに高級なものもないし、強いて言えばノートや本くらいのものか。ノートの中を読むわけにもいかず、そのままにして私は家に置いておいた。そのうちに連絡があるだろうと思っていた。
 案の定、翌々日に連絡があった。申し訳ない。あの荷物をあなたが持ち帰ったとお店の人から聞いた。あなたの都合の良い日でいいので、またあの店で会わないか、と。
 私は快く返事をして、そのまた翌日に会うことになった。件の喫茶店。午後二時。あなたは荷物を受け取ると、なんでこんなによくしてくれるのか、訊いた。そのまま捨て置いてもよかったものを。その厚かましい質問に、私は、さあね、私は愛想がいいから、と応えた。
 でも、本当は違った。喫茶店であなたを見かけた時から、ずっと気になっていた。その席を選んだのも私だった。運命に魅かれ合うように、私たちは出会ったのだ。話しかけたのは偶然だった。だけれど、それを必然にしたのは二人だった。彼女が喫茶店に戻って来なかったのは、私と連絡を取るための口実に過ぎなかった。すんなり帰ってしまっては、連絡のしようがないのだから。私はあなたが読んでいた本も見ていた。それから私もその本を買って読むことにした。私はつぎつぎと辻褄が合うのを感じた。それは私の好きな作家の、私の読んでいない本だった。あなたはそれを、ノートを付けて読んでいた。そうして読む人を初めて見たのだった。
 親しくなったある日、私は訊いた。なぜ見ず知らずの人間に荷物を預けることにしたのか。あなたはこう答えた。
「なんでか、信頼できる人だと思ったの。そして、そんなお願いをしても、嫌な気持ちにさせないだろうな、ってことも。厚かましいとは思ったけれど、そんなもんよ。それを断るような男じゃ、だめね、結局は」
 私はいつの間にか、けしかけられていたのだ。そして、私はいつの間にかそれに応えていた。そうして、私たちは巡り会った。そうして、私たちは、掴みあったのだった。

人のせいにすることの不幸

 自分に起きた不幸の何もかもを、人のせいにするな。そのほとんどは自分のせいである。たとえそれが病気であったとしても、結局は自分の生き方が招いたもの。そんなことですら自分のせいなのだ。その不幸のほとんどは自分のせいであって、人のせいではない。
 自分に起きた不幸を、人のせいにすることは卑しいことである。とどのつまり自分の行動に自分で尻を拭けない人間は、それを人のせいにする、してしまう。自分の悪行、悪手が招いたことなのに。運命なんて言葉、どうでもいいけれど、結局それを招いたのは自分であるという認識もなく、ただただ嘆いたり絶叫したりすることの、あるいは復讐しようとすることのなんという浅ましさよ、卑しさよ。
 人のせいにしている暇があるのなら、自分でそれを取り返そうとするべきだ。取り返したいことなのならね。人生は自分のしたいようにできることもできないこともある。どうにもならないことさえも含めて自分のせいなのだ。自分が生まれてきたから、今の自分がある。生きていることは生かされているとも言えるし、生きているとも言える。生きるから生がある。生きてきたから生がある。その連綿でしかないのだ生は。生まれた瞬間から決まっていることもあるし、そうでもないこともある。それでさえも乗り越えて、いかに幸せになるか、だ。それだけなんだ。自分から自分の不幸に浸って人のせいにしていることは、何も生まない。その誰かに私を幸福にすることはできない。ただ不幸を増長するだけだ。その誰かが何かをしたとしても、私は決して幸福になることはない。不幸を誰かのせいにしていても、何も良いことはない。何も解決しないからだ。ただ自分の中で燻り続けるだけ。嘆き続けるだけ。私はこんな不幸を背負って生きている。だから私を哀れんで。そうやって、自分の不幸を作り上げているのもまた自分である。不幸を招いたのは自分。あるいは自分の運命である。自分がそれを受けたということは、それを自分は背負っているということ。その責任は自分にあるのであって、それは人のせいではない。自分のせいである。加害している人が悪くないと言っているのではない。加害者にはその責任がある。だけれど、それを受け取ってしまうことさえも自分で背負わなくてはならないと言っている。
 縁でこの世界は、この社会は成り立っている。それをどう受け取るのかは、また個人の問題。不運をどう受け取るのか、幸運をどう受け取るのか、それはあなた次第。他人のせいにしていても、自分が永遠に不幸になるだけ。自分になんの落ち度もないのか、なんの因果関係もないのか、自分に問うてみよ。自分が生まれてから死ぬまでの幸運を考えよ。
 人は幸せになるために生まれてきた。人を恨んでも、幸せになることはない。なるべく健やかに生きることは幸せのために必定。どう生きるのか。答えは明らかだ。人のせいにはするな。自分が負え、その不幸も幸運も、幸せも。生きろ。幸せになるために。