どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

被害者意識を葬る

 被害者意識さえなければやっていける。それをなんとかするのは第一に薬だし、そして自分の考え方なのだと思う。自分が被害者になることで得ていることを総ざらいしたら、被害者ぶらなくて済むかもしれない。
 被害者意識はどんどん湧いてくる。それは自分に問題がある。自分の脳みその問題である。それは精神療法的なもので解決することができる。薬を飲むってことだけど。
 私が被害者ぶったところで、加害者にはなんの影響もない。それを見て嘲笑うということもなければ、幸福になるというわけでもない。ただただ私が一人で苦しむだけである。だから、被害者意識を持っても仕方ない。持っても仕方ないということはわかっていつつ、ついつい自動思考で被害者意識を持ってしまう。だから、薬を飲む。そうすることでしか基本的には被害者意識を免れ得ない。薬のおかげでなんとかなっていることは多い。薬によって基本的には被害者意識をいなせる。自動思考がなくなるからである。
 このブログでも何回か書いているけれど、被害者ぶったところで幸せになるわけではない。被害者である限り、幸せになることはない。ずーっと被害者として振る舞い、誰かを恨み、そうして生きることは不幸だと思う。何があったにせよ、被害にあった自分をまずは受け入れて、被害者意識を覆すことでしかない。被害者意識を持ってしまったら、いろんなことがキツくなる。
 人のすることに、自分のせいではないことなんてない。どんなこともどんな状況も、何もかもが自分のせいであり、自分のおかげである。生まれてきたところからそれは始まっていて、死ぬまで続く。何かの被害を感じたとしても、それはある意味では自分のせいであるし、被害者意識を感じるのは自分のせいである。同じことをされても被害者意識を持つかどうかはその人の課題であるからだ。なんとも思わない人はなんとも思わない、ということ。
 被害者意識を持ってしまうのは、そのことで何かを得ているからだ。何か未練があるだとか、被害者になることで得をすることがあるだとか、そういうことで人は被害者意識を持つのではないか。被害者意識に捉われている人生はつらい。自分が自分でない感じがする。少なくとも、その人はその人の人生を生きていない。幸せからは程遠く、対極にある不幸せの中にいる。被害者意識自体から生じて得することは何もない。ただ人を不幸にするだけである。
 被害者意識からは、不幸しか生まれない。そこから脱するには、被害者意識と向き合うしかない。それは被害そのものと向き合うことでもあるし、加害者と向き合うことでもあるかもしれない。直接向き合うのでなくても、間接的に向き合うことで、あるいは自分の意識として向き合うことで、見えてくるものがあるかもしれない。
 今の自分は、何にだって被害者意識を持ってしまう状態なのかもしれない。被害者であることを受け入れてしまっている。何にだって、というのは大袈裟だけれど、なるべく被害者でいたい人間になってしまっている。そうすることでしか今の生活を続けることができないからなのだろう。今の安寧した生活を脱するためにも、被害者意識から脱却するべきだ。
 人生とは元来つらいものであるし、刻苦勉励することでしか何かを得ることはなく、幸せになることもない。挑戦することを選び続けることでしか、人生はない。被害者意識に浸っている時間がもったいないと思い続けることができたら、どんなにいいか。実際にもったいないし、何度もいうが、被害者意識を肯定することは何も生まない。
 被害者意識を克服すること。それが自分が幸せになるための一足目である。どうしても被害者ぶるのであれば、薬を飲むこと。そして、被害者意識に安寧しないと心に刻むこと。人が生きるのに幸せでなくて良いわけがない。私たちは幸せになるために生まれてきた。そうして生きることは人の義務である。

人生、楽しんだもの勝ち、ということ

 僕のことを、人間扱いしなかった人たちがいた。そのことに、私はショックを受けていた。その対象が自分であることに。人間扱いされないことに、自分に原因がなかったとは言えない。いろんなことがあったから。でも、人間扱いされない筋合いはない。
 彼らを憎んでいるわけでもないと思う。だって仕方のないことだから。だからといって、今、関わりたいか、というとそんなことは多分ない。関わりたくない。だって、今でも多分、あの人たちは、わたしのことを人間扱いしない。なんとなくそう思うので。
 自分なんかが、人と関わるなんておこがましいとずっと思っていた。そうやって喋れなくなったんだろう。そう思わせるだけのことがあったんだ。人と関わるのは嫌だとずっと思ってきた。自分はうまく人と関われないんだ、と思ってきた。
 でも、それは間違っている。わたしは、人と関わるべきだ。人と関わって、きちんと幸せになるべきだ。人と関わるのが下手くそなら、練習して、きちんと関われるようになって、幸せになるべきだ。
 人生、楽しんだもの勝ちと、つとに思う。
 人と関わらないなんて、つまらないよ。嫌な目にあってでも、人に迷惑かけるかもしれないけれど、とにかく人と関わった方がいい。そうやって生きていくんだ、人は。人と関わらない人生なんてない。どこにも。人間扱いされないことはつらいよ。だけど、そのことを考えていたって仕方ない。脳の障害からそう執着してしまうことは多い。でも、それを役立てることだってできるはず。どうしても考えてしまう、そういう特性を活かしたら、きっと、人の役に立つ人間になれるはず。幸せになれる。自分は、幸せになりたい。
 過去の自分は水に流そう。自分のことをもっと知ろう。人との関わりの中で人間を知っていくってこともあるんだろう。人間扱いされなかったことをいつまでも考えていても仕方ない。だって、人間扱いされなかったんだから。その事実は変わらない。彼らは考えを変えないだろう。変えたとしても、わたしは知る由もない。どうでもいい。
 知らなかった自分を知る喜びを。人と触れ合う、会話する喜びを。そうして生きて死んでいく喜びを。人と関わるから人生は楽しくあれる。
 わたくしに、変わっていく勇気と喜びを。人と対話する喜びを。

能動的な幸せの感受について

 ぼくが報いを受けなくてはならないなんて、きいてない。なんでぼくはこんな目にあっているのか。なんで皆はいい思いをしているのに、ぼくはこんなんなのだ。自分から奪われたものを、思う。私は人を信じなくなった。
 いや、深いところでは、信じているに違いない。そして、人を信じたいと思っているに違いない。それでも、自分に起きたことの整合性を保つために、人を信じないことにしている。そうした方が、楽だからだろう。自分の方を守るために、私は人のことを信じないことにした。そういうスタンスを保つことにした。でも、本当には、人のことを信じたいんだと思う。そうできないから、自分が苦しいし、いろんなことがうまくいかない。歯車が噛み合わない。人との出会いを、うまく活かすことができない。そもそも、人と出会わない。どこにもいけない。
 人生は、そんな被害者的発想から逃れた方がいい。ただひたすらに自分の生きたいように生き、したいことをし、得たいものを得、そうしてさっさと幸福になった方がいい。そうするものだけが、幸福になれる。くよくよ悩んでいるだけ無駄である。さっさと幸せに向かって突っ込んでいったものが、幸せになれる。自分が被害者であることにも気付かずに、どんどん幸せになれるものだけが、幸せになれる。そうできている。自分の不幸とは関係なく、幸せをつかもうとする者のみに幸せは訪れる。不幸せと向き合ってはならない。向き合えば向き合うほどに不幸せになっていく。かさにかかって不幸せは襲ってくる。どんどん不幸になる。
 どうあっても、自分は自分として生きるのだ。人のことなんて関係ない。自分を不幸にする人間は蔑ろにしてよい。とにかく、自分が幸せになることを考えること。そこは、自分勝手でいい。誰も、私の幸せなど考えてはくれない。幸せになるようになど計らってはくれない。自分の幸せの責任は、自分で持つのだ。何が幸せかなんて、人によって違う。何によって幸せになるのかは、人によって違う。どうやって幸せになるかは、自分で決めるのだ。幸せと向き合うことだ。きちんと。そうでしか、幸せになれない。
 誰かを恨んでも、羨んでも、幸せにはなれない。自分を自分から貶めても、幸せにはならない。自分が能動的に幸せになろうとすることでしか、幸せにはなれない。
 被害者意識を持つということは、受動的なのだ。誰かが危害を加えるから、自分は被害者なのだ。被害者でいられるのだ。幸せになりたいのなら、被害者でいることをやめるべきだ。他人がどうあっても関係ないのだ。自分がただただ幸せであればいい。そうあろうと刻苦勉励することには変わりない。他者はそのことに関与しない。人によって幸せになるのではなくて、自分によって幸せになる。その時そばに人がいるのはいい。だけれど、人によって幸せを妨げられる、ってことがある。人の意識によって、妨げられる。それは、つまるところ自分の意識である。自分の方から幸せを逃している。自分は幸せになってはいけないと思っている。思い込んでいる。それがもう、被害者意識なのだと思う。
 人の意識は、人の課題でしかない。その人の課題でしかない。自分の幸せとは関係がない。人によって幸せになることもあろう。ただ、それは、自分がそうあろうとしているからだ。幸せを受け入れているからだ。だから、そうなれる。人の行動によって自分が幸せになる、あるいは不幸せになる、そのどちらもあるが、結局、選択しているのは自分であると思う。一緒にいたくなければいなければいい。幸せになることを考えているのなら、当たり前のことだ。その人と一緒にいれば幸せなら、そうするだろう。
 能動的にいろんなことを進めることができたら、どんなにいいだろう。攻めの姿勢を忘れないことだ。幸せを掴み取るのだ、といつも思えていたらどんなにいいだろう。受け身にならず、幸せでいようといつも思えることでしか、幸せにはなれない、最近はそう思っている。