どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

今、この瞬間にするべきこと

 今という時間。この瞬間をどう思っているか。このまさに今というこの瞬間をだ。何をしているべきなのか、自分に問うたことがあるだろうか。今この瞬間にしていることに疑問を持ったことがあるだろうか。
 わたしが書いているのは紛うことなく駄文である。こんな文章を読んでいていいのかね。わたしは書く意味があるのだけど、読む人の気が知れない。今この瞬間にするべきことをしたほうがいいんじゃないか。
 それは読書かもしれないし、研究・勉強かもしれない。お皿洗いかもしれないし、今すぐに寝るべき人だっているだろう。そういうことを差し置いてするべきことをしているという自分をなんと思っているのか。こんな降って湧いたような文章を読んでいる場合ではないはず。今この瞬間にできることは山とあるのに、それをせずに、わたしはこうして考え、書いている。
 思えば寝ることだって似ている。寝ることを意識してできる人は少ないのではないか。少なくとも自分はできない。夜、ベッドに入って、気がついたら寝ている。起きる時はアラームが鳴るがよく無視する。そんなことでいいのだろうかと自分に問うたりする。寝ている間に、人生は進まない。この文章を読んでいる間に人生が進まないのと同じように。わたしの人生はちょっと変化するが、あなたの人生は変わらないだろう。人から何か言われてそれで変わるような人生などない。寝ている間に人生は進まない。そのことは重々承知している。それでもわたしは寝てしまう。寝ていたって何も起こらないのに。何も楽しいこと、本当に楽しいことなんて起こらないのに。本当に楽しいことは、起きて、生きている時に起こる。実効性のあることは全て起きている時に起こる。戯れは起きている時に起こる。誰かと出会うとしたら、起きている時にである。それ以外の時には何も起こらない。
 寝ている時間が心地いいことは認めよう。だけど、それだけだ。寝ている時間に文章を書くことはできない。それを読む人も当然現れることはない。今この瞬間を無駄にしている人も然り。自分の時間というものをはっきり持っているのなら、それを活用するべきなのではないか。休み、戯れることもまた自分の時間である。今この瞬間にするべきことを、吟味したことがあるだろうか。今するべきことを考えたことがあるだろうか。流されてそれをしていないか。流されて寝ていないか。この時間までこれをする、この時間まで寝ていると決めてそうしているだろうか。気の済むまですることも良いかもしれない。だけれど、その時間を使っているという意識が自分にあるだろうか。起きている時間にできることを、認識しているだろうか。自分の時間としてできることを、認識しているだろうか。
 流れゆくこの瞬間というものを、どう考えるべきなのか。わたしにはわからない。だけれど、無駄にしておく義理もない。ただ流れていくままに、捨て置くこともない。自分の生きている時間というものを、いかにして高めるかが、私たちが生きているということをするということなんじゃないか。
 流される時間を生きるのではなく、流れていく時間を刻苦勉励することで、人生はなる。起きていてもすることがないということほど、時間の無駄はない。寝ている時間も起きている時間も等価値なのでは、生きているのか死んでいるのかわからない。
 価値というのは人の役に立つことなのではないか。寝ている間に人の役に立つことはないし、寝ていることによって人の役に立てる人間になるということもない。自分のためになっていない時を過ごす間、わたしは寝ているのと同じなのだと思う。何が自分のためになっていないかなんて、わからないことだけれど。それでも、この世界にはいろんな事象がある。いろんなタスクがある。いろんな行動がある。それでもそれをするべきなのか、自分に問うてみる。能動、受動に関わらず、それが自分のためになるのだろうか、考えてみるといい。人のためになるだろうか、考えてみるといい。どうしたら楽しく幸せでいられるのか、考えてみるといい。すぐに答えは出なくても、なんらかの答えはあるはず。それを実行するのだ。実行し続けるのだ。

人の役に立つということ

 人を役立ててばかりで、つまりは人に頼ってばかりで、人の役に立とうと思えていなかった。自分一人で生きているつもりになっているわけじゃないけれど、ほとんどそうなのかもしれない。関わっている人は少ない。誰かのために生きているという実感はないし、生きるので精一杯という感じなのだけど、自分が何かしたら、誰かの役に立てるのかもしれないという感覚は持っている。でも、それを実行する機会はない。どうしたらいいのか。
 誰かの役に立ちたいと思うようになった。父が亡くなってから、余計にそう思うようになった。誰の役にも立たずに死ぬのは嫌だな、と、つとに思う。自分の持ち物や修練したことで、人の役に立てたらどんなにいいだろうと、思う。自分とはいったいなんなのかとか、そういうことまで考えてしまう。社会の中の立ち位置というか。自分の存在意義というか。このままでは、遅かれ早かれ、悔いを残して死ぬことになるだろう。誰かの役に立ちたい、という気持ちは強い。
 今はせめて、母の役に立とうと生きているような気がしている。母の役に立たない日は自分を情けなく思うだろう。
 生きるのに精一杯であることと、自分勝手に生きることの境界線はない。自分をいかに賭すか、ということなのかもしれない。そこの踏ん切りがつかないから、いろんなことがうまくいかないのだろう。せめて自分を人の役に立てようと思えない限り、進むべき道はないし、そうあるのなら、つまり人の役に立ちたいと思えるのなら、何かできることはあるに違いないとは思う。そう思えているうちはいいと思う。
 では、具体的にどうしたらうまく自分を守ったまま人の役に立てるのだろうか、ということになると、とんと見当がつかない。自分を守る必要なんてないという人もいるのだろうけれど、わたしのことはわたしが一番よくわかっている。わたしはわたしを守らなくては死んでしまう。その上で人の役に立つことが大事なのだと思う。
 どうしたら自分のペースで人の役に立てるのだろうかと思う。本気でそう考えているだろうか。自分のできることを理解しようとしているだろうか。どうすることが人の役に立つことだと思っているのだろうか。何もしないことを自分に言い訳していないか。何かできることはないだろうかと日々考えているだろうか。
 自分の経験したことを文章にするのはどうだろうか。そのことでどのくらいの人の役に立てるのだろう。経験の内容にもよるだろうけれど、そして、どのくらいの人に読んでもらえるのかにもよるのだろうけど、それで人の役に立てるだろうか。文章を書くということは、どういうことなのか、まだ実はよくわかっていない。ただ、書きたいことを書いているだけだから。本当に人の役に立てる文章を書くことができたなら、読んでもらえるはず。そのために、できることは多いはず。つまり、人の役に立つ文章を書き、それを人に読んでもらう工夫ということだ。そう思えば、力が湧いてくるような気がする。それなら、自分のペースを守ることができるだろう。自分を守りつつ人の役に立てるのなら、そんなにいいことはない。
 大事なことは、人の役に立つことだ。それをどう自分を介して実行するのかということなのだろう。自分を媒介にして、人の役に立てるのなら、自分にできることがあるのなら、できることをしようと思い続けること。そう具体的に考えることができているうちは、社会に参加しているといえよう。何を以って人の役に立てるのかなんてわからない。ただ、自分を、社会に役立てようと本当に思うのなら、できることはあるはずだということ。自分が、自分という人間が生きている限りは、できることが必ずあるはずで、それを追求し続けることでしか、社会の中に生きているとは言えない。どうしたらそうできるのか、きちんと考えることでしか、本当に生きることはできない。せめて、生きようと思う。今まで生きてきたのだから。今まで、生きることを選んできたのだから。次のステップに進んでもいいと思う。人の役に立って生きることを考えてもいい時期に来ていると思う。考えよう。自分と向き合おう。自分を動かそう。自分を愛でよう。生きるために。

いろんな顔

「怒ったら、どんな顔するか、見たかったんだよ」
 唐突な告発にぼくはこう答えた。ぼくはいたって冷静だった。どうにもならないなんて自分を見捨てたりしなかった。やさぐれたりもしなかった。彼女にきちんと説明するつもりだった。
「もし君が怒ったなら、どんな風に怒るのか、それだって興味があったんだよ」
 そういうと彼女は黙っていた。ぼくは間違っていない、ひとつも。そう自信があった。その証拠に彼女は黙っていた。彼女はおしゃまで、勘違いをすると突っ走るタイプだった。取り止めもないことを、大袈裟に捉えてしまう性分らしかった。
 怒った顔もかわいらしかった。見たことのない顔だった。くるくると変わる彼女の表情を見ていると飽きないなと思った。死ぬまで見ていたい、そうとさえ思った。
「ちょっと意地悪なことをしたのは謝るよ。でも、別れるほどじゃない。君も本気じゃないのはわかっているよ。そうでしょ」
 彼女が本気ではないのは、わかっている。でも、なんでこんなに深刻な会話になっているのか、自分ではよく分からなかった。彼女とはいろんなことで時空が歪む。これもその一つだった。真剣にいろんなことを話せるのはいいことだと思った。
「怒った顔もいいなと思ったんだよ。だからエスカレートしちゃったんだ」
 彼女は目を潤ませて下を見つめている。勝気な彼女が見せるこんな顔も、それはそれで新鮮で、ぼくは抱きしめたくなった。
「不安だったの。なんでこんなことするのかなぁ、って。なんでこんな意地悪するの、って」
 彼女は、涙ぐんだまま言った。
「ばか! もう知らない! 顔が見たいなんてよく分かんないし!」
 そういうと彼女は抱きついてきた。ぼくのことを信じてくれているみたいだった。ごめんね、とつぶやくと、ぼくは抱き返した。彼女の温もりが伝わってきたみたいだった。
 冷たい風がびゅうびゅう吹く、高校最後の冬だった。
 ──あれから七年。
 その彼女と久しぶりに会った。というか会ってしまった。彼女は怒った顔も、喜んだ顔もしていなかった。ただ、茫然と向き合う先に僕がいるだけみたいにして佇んでいた。僕はなんとも言えず、会釈をした。彼女はハッと気がついたようにして一瞥した。
 こんな彼女の顔を見るとは、思わなかった。無関心な顔。あの頃に見た怒った顔は、よかった。感情があって。湧き出ていて。溢れていて。僕に対して真剣なのが伝わってきた。愛は深まっていた。
 人の気持ちってのは不思議だ。いろんな階層を持って僕たちは生きているのだと実感する。時に愛していた人のことを蔑んだりする。それだってちょっとした入れ違いみたいなもので、コロコロと変わるって感じがする。人によってはもう戻れないんだ、っていうかもしれない。でも、完璧な人間なんていないって、僕は思う。とても、思う。どうにもならないことは多いけれど、それでも目を瞑って許して、そうして生きていくのが僕たちってもんじゃないのか。何もかもを許せる相手なんてそうはいない。
 いま、彼女にも、大事な人がいるんだろう。その人にも意地悪されているんだろうかと、ふと、思う。彼女のコロコロ変わる表情を楽しむ人がいるといいな、と思う。喧嘩するほど仲がいいって、人はいう。だけど、それだけじゃなく、いろんな顔を見ていたいと思わせる人だった。