どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

自分を幸せにしようとすること

 ひとはふつう、自分を幸せにしようとするものなのか
 なんとなく なんとなく
 はしっていたけど
 やっぱりそうなのか

 だから、幸せにしてもらっているひとを見ると複雑な気持ちになっていたのか

 そんなこと、当たり前のことなのかもしれない
 でも、なんだか、そんなことはなかった
 ぼくにとっては

 自分を幸せにしようとしない人間が、誰かを幸せにしようと思うはずがない
 そう言ったら、なにかの弁解になるかもしれない

 ただ、なんとなしに
 いろんなことをやっていた
 仕事も 趣味も 気晴らしも
 みんなみんな
 自分の時間を潰していただけだったような気さえする

 いや、少しは楽しくいようとはしていたろう
 だけど、それが幸せのためとは全く思わなかった
 本当にほんと
 思いもしなかった

 自分で 思わせもしなかった のかもしれない
 なんでか、自分は幸せにはなれないと思っていた
 なんでか、自分は幸せになってはいけないと思っていた

 これはかわいそうとかではなくて
 なんだか、そういうものなのだ
 というだけ
 いろんな歯車が噛み合って
 そうなってしまった

 いくら
 考えても
 幸せになりそうもない

 行動は
 めっぽう奥手なのに
 そうしようとはほとんど思えない

 金を使ってそれで幸せだなんて
 うすうすだ

 幸せのことを能動的に考えたり
 主体的に実行したことがなかった
 ただ生きていられたら、それでよかった
 それしか求めていなかった
 ただ幸せは幸せとしてあったのかもしれない
 ただ幸せだっただけだから、それが幸せと気がつかなかったのかもしれない

 主体的でない人に幸せはないと思うようになった
 自分から動く人にしか幸せは察知できないのかもしれない

 自分を、人を介して幸せにしていいのだろうか
 自分を、幸せにしてもいいのだろうか
 人を、幸せにできるだろうか
 受け身の幸せよりも、自分から幸せになる方が、幸せだ、といまは思う

老後の鼎談

 その、写真に収められた彼女の笑顔が輝いているのは、彼女を撮っているあいつのことを見つめているから。あるいは、目だけではなくこころで。
 人を思う気持ちは、簡単にわかってしまう。だけど、当の本人にはわかっていなかったりする。彼女が、こんな顔をするなんて、こんな風に笑顔のシワをこしらえているなんて、ぼくは知らない。
 側から見ていたら、ぼくもあいつも、そして彼女も、きっと対等な関係に見えているんだろう。でも、この写真を見たぼくには、そうは思えないでいる。
 落ち込む? いや、そんなことではなくて。そんなことではなくて、ぼくと二人とのそれぞれの関係を、ぼくたちはそれぞれに愛おしく思っている。だから、三人でいることは楽しいことだ。
 一葉の写真を棚に上げても、ぼくには彼には勝ち目がないのかもしれない。
 かといって。
 波打ち際に三人でいたときに、なんだか、おもうことがあった。あの子は、何か物憂げで、それでいて、あいつはなんだか笑ってた。ぼくは、どんな顔をしていたんだろう。
 どこにいたって救われる気がしないのに、それなのに、三人でいることがこんなにも楽しくて、ぼくは、ある種の絶望みたいなものをその裡に隠し持っていたのだった。
 三人であることが、たぶん、大事で。このバランスを崩すことに、この、微妙なバランスを崩すことに、ぼくたちは不慣れだった。
 人と、楽しく過ごせるというこの幸福を、これを読んでいるあなたは知っているだろうか。あれは、いいものだ。きっと、人が生きていく理由になるくらいに。やっぱりぼくは、救われる気がしない。どこにいたって。誰といたって。なにをしていたって。
 そして、また、愛しい人を独占したいとも思ってしまう。それは、叶わないとしても。そして、それでさえも救われないとわかっているのに。
 人が死ぬときに、なにを思うのか。人は結局はひとりなのに。それなのに、人を、やっぱり、求めてしまう。
 この三人だからよかった。この三人でなければならなかった。どうせ救われないのなら、その方がいい。楽しいことに勝ることは、きっとない。どんな幸福だって。この三人には敵わない。そう二人もわかっていると、ぼくもわかっている。
 例えば、五十年後にも会う人たちになるんだろうと思ったりする。そうなれば、いいな、なんて。おじいちゃんおばあちゃんになっても、今とおんなじように、和気藹々と、そして、なんらかの悲しみを抱えて、バランスを保っていられたら。
 こころの裡にあるものは、隠しきれないんだろう。それでも、あのときに愛を告げてくれなくてよかった、なんて、あの子はぼくに、あいつはあの子に言い合ったりして。
 ぼくは、死ぬまで、楽しく生きていたいと、おもう。
(了)

最期の床にて

 あなたと出会ったとき、今までぼくに起こったすべて、ぼくが考えたすべて、そして行動したことのすべての訳がわかった。
 なにもかものすべては君と出会う為だったのだ。
 高三の夏にふとジャズのCDを買ったことも、大学生のときに本屋で働き始めたことも。
 一つひとつの行動、心の動き、思考、なにもかもが、あなたとの一点の交わりに向かって収束していった。なにかを選ぶ度に、ぼくという人間は限定されて、そして、あなたと重なった。
 ジャズも、本も、ただの一例に過ぎない。
 なにかに謀られていたかのように“その人”はあなただった。今まで生きてきたすべての物事は、あなたとの接点となった。接点の集まりは線となり、面となり、やがて立体となって、つまり、もうひとり(・・・)の点を生むことになった。
 彼女を初めて抱き上げたときに、わたしはなにかを繋いだとおもった。これから、長い時間をかけてバトンを渡していくのだ、と。
 あなたと出会ったことの意味は、彼女へあなたとわたしの何かを渡して繋ぐためのものでもあったのかもしれない。
 そこには、一本の帯が流れている。繋がれて生まれてきたわたしとあなたが出会って、脈流としてまた接ぐことができた。
 自分が生まれて、生きてきたすべての意味を、わたくしはつかうことができた。接する点の多い方が、接ぐのに具合がいい。ただ、それだけだ。人とひとのつながりというのは。
 また、来来世にでもお会いしましょう。
 左様なら。
(了)