どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

わたしが大事にしたいこと

 私は、どうしたいのだろう。どうなりたいのだろう。私はおそらく間違っている。それを真に認めることができているだろうか。心のどこかでは認めていないのではないか。正しいのだと思い込んでいるのではないか。心の底から謙虚だろうか、誠実だろうか。
 私は何かに満足しているだろうか。自分の為したことに。自分が手に入れたものに。自分の経験したことに。自分の自由に。自分の気持ちに。自分の美意識に。
 何かを買って、買ったことに満足することは、誰にだって(お金さえ持っていれば)、できること。自分ができること、例えば、職能として、技術として、思想の顕れた行動として。
 私が手に入れたいもの。心の底から全身のすみずみに渡って本当に手に入れたいもの。おそらくそれは、具体的な何かではなくて。それについての失敗のためなら、何を失ったって後悔しない、そういうものあるいはそういった行為なのだろう。
 私はよく肝心なところで退いてしまう、譲ってしまう。それは自信のなさの現れだと思っていた。でも、たぶん、違う。自信などそもそも私には皆無ではあるが、そんなことは関係がない。そもそもそうしたくないからだ。そう思う。私は自分のことをとてつもなく流されやすい人間だと自負しているが、それについての自己抵抗を、退いているだとか、譲っていると思っているに過ぎない。もっと言えば、その対象をそもそも知りたい気持ちになれなかったり、理解されていないと感じた時にただ撤退している、というだけなのだ。それを本当にはしたくなかったり、ただただ時間が無かったり、というそれだけなのだ。
 何かをやりたくないだとか、人を無為に受け入れなかったりだとか、そういったことがそもそもそんなにない自分には、撤退することそれ自体を嫌悪しているに過ぎないのだ。それは、逆に言えば、きちんと反応できているということ。
 人が求める自分の役割に応じることは楽だ。だって、それだけをしていたらいいから。自分が本当にしたいことを、人が私にさせようとしていることに当てはめているだけなのではないか、と最近思う。人が私に望んでいることに応えようとしているだけなのではないか。人の求めている私という人間からはみ出せばはみ出すほどに、軋轢は生まれるし、いろんなことは上手くいかない。その色に染まることは、簡単なことなのかもしれない。だって、そうすることは楽しいことでもあるから。人に迷惑をかけない限りは、うまくやっていけるだろう。そうやって生きる道だって、私には、ある。
 「女だから」「男だから」「いい歳だから」あらゆる常識や役割がこの世界にはあって。できることもできないことも、できるけど苦手なこともできないけどしたいことも、したいこともしたくないことさえも、”簡単に””安易に”なっている。こうするとうまくいくだとか、こうすると得をするだとか、こうすると楽だとか。”簡単に””安易に”消耗されている。世界はどんどんそういう方に向かっている。
 そうやって、したいことを、どんどん、見失っていく。どうなりたいのかも、どうしたいのかも、何をできるようになりたいのかも、何を手に入れたいのかも、全部がおざなり。快楽も嫌悪も悦びも高圧な振る舞いも無責任さも、何もかもが”簡単”で。
 なにを以ってしても、私を満足させる快楽も嫌悪も悦びも振る舞いも背負って立つ責任も、ないのはわかっている。だからこそなるべく丁寧に、誠実に、いたいって、思う。闘うべき時には、闘わなくてはならない。自分の尊厳を守るために。そこは、絶対に、おざなりにしてはいけない。誰に対しても、何についてだとしても。自分を貶め続けているのは、自分だったのかもしれない。自分をこそ、大事にしなくてはならない。そうしてくれる人など、ないのだから。

”死”を目前にして、私が考えること

 私が初めて”死”という概念を認識したのは、いつのことだったろうか。と、漠然と考えていたものの、まず私が思い浮かんだのは、マンガであった。
 言葉としての”死”は「お前はすでに死んでいる」という今思えば『北斗の拳』のセリフを保育園のともだちが言っているのを耳にしたときかもしれない。その時には「すでに死んでいる」という決め台詞のかっこよさを感じていただけだった。”死”という概念を理解していたわけでは、もちろんなかった。
 実際に生きている人の死に接したのは、父方の曽祖母が亡くなったときだろう。やはり私は”死”というものを理解していなかった。まぁ、小学一年としてはフツウのことかもしれない。当時の私は「大きいおばあちゃんはどこに行ったの?」と親戚に訊いてまわったらしいが、自分では全く覚えていない。
 そこから月日は過ぎて、具体的な”死”は、まぁ、人生にはよくあることだが、やって来た。高校時代のことだ。同級生が亡くなった。女の子。その子は私の友人の恋人だった。
 その時が、私が初めて具体的に人の死を感じた時だったのだと思う。
 ”死”という空虚をその時に明らかに感じていた。その時の私は、今よりずっと鈍い人間だった様に思うが、それでも自分が泥の沼に沈められて泣きたくなるような気持ちだった。正直、あんな目には会いたくないと思ったし、こういう目に近親者や友人に合わせるのは辛いと思っていた。
 それでも、誰だって人は死んでしまう。しかし、死を瞬間、シュンカンに感じつつ生きる人はいない。自分がいつか死ぬだなんて考えることもない。いつか死ぬからといって、生き方がそうそう変わるものでもないのかもしれない。だから懸命に生きたい、と思うわけでもない。
 生きていても、本当になんの楽しみもない人がいるのだと、この歳になって知った。生きるために動(働)いているのか、動(働)くために生きているのかわからなくなっている人。それは、何かに夢中になっているという意味では全然なくて、ただやっているだけの人。そのことになんの喜びも感じずに、厭嫌と生きている人。そういう類の虚しさもあるのだ、と。
 人は生きる儚さを持つと同時に、死ぬ儚さを内包している。生きる虚しさを抱えながら、死ぬ虚しさにひた走る。なぜ生きるのか、は、きっと、どう死ぬか、に直結する。そして、それは、結局のところ、どう生きるのか、ということだ。
 切羽詰めて、精魂込めて生きる必要はたぶんなくて、走り続ける、あるいはそのためにときどき歩くことが大事で、じゃあ、幸せとはなんなのか、って。幸せについて考えなければ、自分が不幸にあるとも解らず、それはそれで幸せなのかもしれないと思いつつ、やはり幸せでいたい、と思う。
 私はなんだか幸せを求めてはいけないような気がしていた。何かを禁じられているような、許可を得ていないような、その資格を持っていないような。
 自分の振る舞いや、先行きについてどうにもならないと思い込んでしまっている時間を私は過ごしすぎた。自分には選ぶ権利はないのだと思ってしまっていた。でも、それはただその方が楽だったから、というだけに過ぎない。放棄してなにかに身を委ねた方が、責任も心的ダメージもそのなにかに委ねてしまうことができるから。でもそれは、自分に対して無責任であった。
 今、私には、自分の振る舞いでどうにでもなることが増えた。それは、これから先、加齢と共に次第に減っていくだろう。
 やらなければ、できない。求めなければ、得られない。何をしようとするか、何を求めるのかは、自分の価値観や美意識に依る。何も知らない人は、何を求めたら良いのか解らないし、人を知らない人は、どんな人を求めたら良いのか解らない。
 じゃあ、どう生きるのか、ということ。

書くことについての、直感

 仕事をすることの楽しみを最近つとに感じている。というか、その快楽を自分の中で制御できなくなっている。その快楽をいつも求めている。
 物を創ることも、物を造ることも、こんなに楽しいことだったなんて、ぼくは知らなかった。何かを達成するまでは、しんどい。それは、とてもしんどい。だって、もし失敗したら、いま自分がしていることの全てが無になってしまうかもしれないから。何かを行動するたびに、人は失敗する。それも踏まえて人々は何かを達成しようとする。それが悦びであるから。それを達成することが、人の役に立つことだと思うから。それを達成することで、自分を社会に活かすことができると思っているから。そうして、自分を生かすことができるから。
 実際に物ができていくという喜びを、わたしは今、日々感じている。わたしが知恵を絞って創り、そのアルマイトに指紋を残して造ったそれを、わたしは愛おしく思っている。
 自分の何かを賭して何かをすることの悦びは、何にも代えがたいのだということを、私はこの歳になって知ったのだった。
 それならば、と思う。こうして物をつくる様に、物を”書く”のなら、その様な悦びをまた得られるのではないか、と。書くことについて、今は残念ながら、それほど何かを賭しているとは言えない。何もリスクを負ってはいない。書くことについて負っていることは、その時間と利き手の腱鞘炎のリスクくらいだろう。とにかく私はそんなに、例えば今わたしが仕事をしている様には、自分を賭して書いてはいない。
 もしそうしたら、書くことについての悦びはいまよりもずっと増すだろうと容易に想像できる。物を創ることも、物を造ることも、こんなに自分の中の悦びを引き出してくるなんて、知らなかったのだから。書くことにも同じことが起こるかもしれないと、僕は直感している。
 書くことで、いや、下手を書くことで自分の何かを失う様な、例えば「信頼」とか、場で書いていたい。場でなくても、自分でそうやって書いているべきなんじゃないか。あの悦びを知ったら、この悦びも求めてしまう。私はもう、おそらく、物を創ることなしに、物を造ることなしに、生きることはできない、と今は思っている。そして、物を書くことなしに、生きることができなくなったらいいのに、と思っている。
 それじゃあ、そのことにまつわる総てを理解しているのか、というとそんなことはなくて、おそらく、そのほとんどを理解できていない。だとしても、書くことで何もかもを失ってもいいと思えるくらいに、物を書くことが好きなのだ。だって、私は明らかに、書くことによって生かされたのだから。そう思えば、何かを書くことによって何かを失うことは、何かに何かを返しただけ、と思えてしまう。そう思えるから、書くことが悦びになるはずだ、と直感できるのだと思う。