どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

得がたい人を得るということ

 この人には敵わないなぁ、という人がよいとおもう。
 わたしが敵わないと思っていることを喜ぶ人が人がよいだろうともおもう。
 うまく支配できると、そう信じていてほしい。
 わたしを掌のうえで踊らせて欲しい。
 わたしが踊らされているとも知らないうちに。
 この人には敵わない、とおもえるのなら、
 それが一番よいだろう。
 それは押しの強さではないし、
 わたしの中に入り込む深さでもない。
 
 人に幸せを委ねるということもなく、
 その人はただ、その人によって幸せで。
 ただ、わたしと一緒ならば、その幸せは倍増していてほしい。
 
 わたしは、きっと、一人でも幸せだろう。
 でも、誰かと共に生きることの
 強さを、
 深さを、
 絡み合うことの刺激を、
 わたしは知っている。
 
 わたしは、独りでは正しくない。決して。
 わたしはただ幸せだろうが、正しくはない。
 正しくないなりに、楽しく生きるんだろう。
 正しくないのなら、どこかで間違うってことも多分にあるだろう。
 
 互いがけしかけ合えるのなら、
 互いが互いの幸せを倍増させ続けるのなら、
 それが一番いいんだろう。
 
 この人には敵わない、という人は、きっと、
 わたしが正しくないということを自覚させてくれる人だろう。

 正しくないままに生き続けることは、おそらく、できる。
 でも、もう少しマットウに生きることができるはず。
 わたしは途方もなく愚かであって、
 そのことをわたしに諭してくださるのなら、
 わたしは、その人に一生を尽くすだろう。
 それは、その人によってわたしが生きる、ということに他ならないのだから。
 
 わたしは、正しくないままなら、生きていてもしかたがないとおもっている。
 
 得がたい人を得る、という困難さを、わたしは甘く見ているのかもしれない。

人間を信じている

 人と接することには正も負もある。どちらかだけ、ということもほとんどない。それをどう受け取るのか、どう解釈するのか、は自分が決めている。決めているという自覚がなくても、決めている。そう感じているのは、その人自身でしかない。同じ目に遭ったとしても、人によってその捉え方が180度違うってことは往々にしてあるんだから。
 今思えば、人との食い違いを恐れているのは、もったいないと思う。
 なにかの齟齬があったときに、自分を悪者にするのは自分の勝手、それによって閉じていくのもまた自分の勝手である。それでは結局、人のことを許していない。自分が悪いんだから、と言いつつ、人に弁解の余地を無くさせてしまっている。そして、自分を本当の悪者にしてしまっている。
 人のことを信じていないし、自分のこともまったく信じていない。そんな人間は、やっぱり良い人間であるわけがないと、改めて思う。
 さまざまな経験を通して、自分がいかに許されているのかということに思い至った。そして、自分がいかに人を許していないか、も痛感したのだった。
 それは、自分をいかに信じていないか、そして、自分がいかに人を信じていないか、を物語っていたと思う。
 接している人が、仲が良いだとか、親しいだとか、知り合いだとか、あるいは知らない人だとか、そんなことは大した問題ではないんだ。
 人間という存在を信じているか、という、それだけのことだった。
 この数ヶ月で、どうやったら人に信頼してもらえるだろうかを考えていた。
 それは、たぶん、いかに自分を信じるか、ということだった。自分が信じている行動や表現でしか、人はわたしという人間を信じることは決してできない。自分が思いを込めていないことで、人から認められることは永遠にない。自分を信じているから、人はなにかをできるし、存在できる。それ以外に、他人に対して自分の信頼を担保するものはない。
 人は、間違える。何についてだって。誰に対してだって。どんな時にだって。好きも嫌いも関係なく。好きな人に対してだろうがそうではない人であろうが。時間を持て余していようが忙しかろうが、調子が良かろうが健康を損ねていようが、関係なしに間違える。どんなに誠実な人だって。どんなにしっかりした人だって。どんなに真面目な人だって。そこに、絶対はない。間違えないことを求めてはならない。
 自分が間違えることを許せるから、自分自身を信じることが叶うと、今のわたしは思っている。
 間違えることを了解できるから、人を信じることができると、今のわたしは確信している。
 間違えることを許容する余裕がなければ、人と接することはできない。永遠に。自分と関わることさえもできない。
 そうしない人は、生きながらに死んでいる人だ。社会的にも、精神的にも。
 人間には良いところもあるし、そうでもないところも当たり前にある。
 それで認め合えるから、人と接することは楽しいことなのだ。
 その余裕があるから、人と接することは楽しいのだ。
 そこには、正も負もない。それをどう捉えるか、だけだもの。
 人と人との関係は、その人のことを信じることができるか、そして、自分のことを信じることができるか、というだけなんじゃないか、と思う。

運が良いということ

 わたしは、つくづく、とことん、いつもいつも、運がいいと自分のことをおもう。でも、運がいいというだけではなかったはず。
 なんとなく、の興味がいろいろとつながっていったり。ちょうどいいタイミングでいい仕事が舞い込み続けたり。疲れたなぁ、というところでうまく休む理由をつくれたり。たまたま入った会社でよくしてもらえているのも、とても運が良かった。
 良いことの印象ばかりを強く残していて、そうでもない幸運でもないことをただ忘れてしまっているというだけなのかも。運がいい時にはやっぱり印象に残る。そうでないことの方が、日常のことで、幸運でもなんでもないことの方がほとんどだろう。なにかの失敗のことを、わたしは運が悪い、と片付けることは自分には滅多にないのだし。だから、なんでもない瞬間の連続と、運の良さを感じる瞬間とで、幸運さに意識が向かうのかもしれない。
 「うまくいったことは、たまたま運が良かったのだ」。なんだかそう思ったりする。うまく人が導いてくれたから。うまく自分が何かに気がつくことができたから。たまたま興味を持てたから。たまたま熱を持つことができたから。たまたまやり方を知っていたから。
 でも。
 例えば、人と会う、というようなときに。会うということを、やっぱり私たちは選んでいる。目の前に知人がいたとしても、“会わない”人もいる。自分がそう振舞わなければ、“会わない”。相手が自分に対応しなければ、“会えない”。“会った人”との間には、何かを掴んでいる。「縁」みたいなものを。それが道端のたまたまであったとしても、“会わない”人もいる。何年も音信不通で、遠く離れてしまっている人との縁を手繰り寄せ、掴んで“会う”ってこともあるんだろう。そういう“遠い”人との繋がりの要所に“運”の作用があるってことを、ぼくは経験的に知っている。
 そういうことも、やっぱりたまたまなのだ。だけど、たまたまでもないんだ。その人が目の前に現れることはたまたまなのかもしれないけれど、それをやっぱり選んでいる、掴んでいる。
 幸運が起きてもそれを掴まない人もいる。掴む構えのない人もいる。幸運が舞い降りていることにさえ気がつけない人もある。幸運に接してもそれを活かすことができない人もいる。それが起こってからあれは人生に一度の幸運だったと気がつくこともある。
 一億円の石を拾っても、その価値を知らなければ、それはやはり石ころでしかない。自分に技術を与える仕事を前にして、なにも考えずにこなしていたら、やはりそれは技術にはならない。
 優れたショートストップは守備位置で常にかかとを上げている。プロのゴールキーパーに自陣にボールが入ってかかとをつけている人はない。
 運は必然だ、とは言えない。だけど、運が降ってきたときにそれを掴むことはできる。その準備も。
 たぶん、日常にみんな幸運だ。だけど、それを掴めないことのほうが、たぶん、多い。だから、それが幸運だと気がつけない。運がいい人は、それを掴む人なんじゃないか。
 いまは、一日に48時間くらいほしいです。14時間働いても、疲れない脳みそも。
 “運の良さ”をずっと感じていたい。なんだか、それがとても心地いいことだ、とおもってる。未来の自分のほうがいまよりいいとおもえる。今の自分で申し訳ないとおもう。