どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

運が良いということ

 わたしは、つくづく、とことん、いつもいつも、運がいいと自分のことをおもう。でも、運がいいというだけではなかったはず。
 なんとなく、の興味がいろいろとつながっていったり。ちょうどいいタイミングでいい仕事が舞い込み続けたり。疲れたなぁ、というところでうまく休む理由をつくれたり。たまたま入った会社でよくしてもらえているのも、とても運が良かった。
 良いことの印象ばかりを強く残していて、そうでもない幸運でもないことをただ忘れてしまっているというだけなのかも。運がいい時にはやっぱり印象に残る。そうでないことの方が、日常のことで、幸運でもなんでもないことの方がほとんどだろう。なにかの失敗のことを、わたしは運が悪い、と片付けることは自分には滅多にないのだし。だから、なんでもない瞬間の連続と、運の良さを感じる瞬間とで、幸運さに意識が向かうのかもしれない。
 「うまくいったことは、たまたま運が良かったのだ」。なんだかそう思ったりする。うまく人が導いてくれたから。うまく自分が何かに気がつくことができたから。たまたま興味を持てたから。たまたま熱を持つことができたから。たまたまやり方を知っていたから。
 でも。
 例えば、人と会う、というようなときに。会うということを、やっぱり私たちは選んでいる。目の前に知人がいたとしても、“会わない”人もいる。自分がそう振舞わなければ、“会わない”。相手が自分に対応しなければ、“会えない”。“会った人”との間には、何かを掴んでいる。「縁」みたいなものを。それが道端のたまたまであったとしても、“会わない”人もいる。何年も音信不通で、遠く離れてしまっている人との縁を手繰り寄せ、掴んで“会う”ってこともあるんだろう。そういう“遠い”人との繋がりの要所に“運”の作用があるってことを、ぼくは経験的に知っている。
 そういうことも、やっぱりたまたまなのだ。だけど、たまたまでもないんだ。その人が目の前に現れることはたまたまなのかもしれないけれど、それをやっぱり選んでいる、掴んでいる。
 幸運が起きてもそれを掴まない人もいる。掴む構えのない人もいる。幸運が舞い降りていることにさえ気がつけない人もある。幸運に接してもそれを活かすことができない人もいる。それが起こってからあれは人生に一度の幸運だったと気がつくこともある。
 一億円の石を拾っても、その価値を知らなければ、それはやはり石ころでしかない。自分に技術を与える仕事を前にして、なにも考えずにこなしていたら、やはりそれは技術にはならない。
 優れたショートストップは守備位置で常にかかとを上げている。プロのゴールキーパーに自陣にボールが入ってかかとをつけている人はない。
 運は必然だ、とは言えない。だけど、運が降ってきたときにそれを掴むことはできる。その準備も。
 たぶん、日常にみんな幸運だ。だけど、それを掴めないことのほうが、たぶん、多い。だから、それが幸運だと気がつけない。運がいい人は、それを掴む人なんじゃないか。
 いまは、一日に48時間くらいほしいです。14時間働いても、疲れない脳みそも。
 “運の良さ”をずっと感じていたい。なんだか、それがとても心地いいことだ、とおもってる。未来の自分のほうがいまよりいいとおもえる。今の自分で申し訳ないとおもう。