どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人間を信じている

 人と接することには正も負もある。どちらかだけ、ということもほとんどない。それをどう受け取るのか、どう解釈するのか、は自分が決めている。決めているという自覚がなくても、決めている。そう感じているのは、その人自身でしかない。同じ目に遭ったとしても、人によってその捉え方が180度違うってことは往々にしてあるんだから。
 今思えば、人との食い違いを恐れているのは、もったいないと思う。
 なにかの齟齬があったときに、自分を悪者にするのは自分の勝手、それによって閉じていくのもまた自分の勝手である。それでは結局、人のことを許していない。自分が悪いんだから、と言いつつ、人に弁解の余地を無くさせてしまっている。そして、自分を本当の悪者にしてしまっている。
 人のことを信じていないし、自分のこともまったく信じていない。そんな人間は、やっぱり良い人間であるわけがないと、改めて思う。
 さまざまな経験を通して、自分がいかに許されているのかということに思い至った。そして、自分がいかに人を許していないか、も痛感したのだった。
 それは、自分をいかに信じていないか、そして、自分がいかに人を信じていないか、を物語っていたと思う。
 接している人が、仲が良いだとか、親しいだとか、知り合いだとか、あるいは知らない人だとか、そんなことは大した問題ではないんだ。
 人間という存在を信じているか、という、それだけのことだった。
 この数ヶ月で、どうやったら人に信頼してもらえるだろうかを考えていた。
 それは、たぶん、いかに自分を信じるか、ということだった。自分が信じている行動や表現でしか、人はわたしという人間を信じることは決してできない。自分が思いを込めていないことで、人から認められることは永遠にない。自分を信じているから、人はなにかをできるし、存在できる。それ以外に、他人に対して自分の信頼を担保するものはない。
 人は、間違える。何についてだって。誰に対してだって。どんな時にだって。好きも嫌いも関係なく。好きな人に対してだろうがそうではない人であろうが。時間を持て余していようが忙しかろうが、調子が良かろうが健康を損ねていようが、関係なしに間違える。どんなに誠実な人だって。どんなにしっかりした人だって。どんなに真面目な人だって。そこに、絶対はない。間違えないことを求めてはならない。
 自分が間違えることを許せるから、自分自身を信じることが叶うと、今のわたしは思っている。
 間違えることを了解できるから、人を信じることができると、今のわたしは確信している。
 間違えることを許容する余裕がなければ、人と接することはできない。永遠に。自分と関わることさえもできない。
 そうしない人は、生きながらに死んでいる人だ。社会的にも、精神的にも。
 人間には良いところもあるし、そうでもないところも当たり前にある。
 それで認め合えるから、人と接することは楽しいことなのだ。
 その余裕があるから、人と接することは楽しいのだ。
 そこには、正も負もない。それをどう捉えるか、だけだもの。
 人と人との関係は、その人のことを信じることができるか、そして、自分のことを信じることができるか、というだけなんじゃないか、と思う。