どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

どこにでもいる僕たちなのに

「なんでこんなことすんの!」
「別にー、理由なんてないよ」
「はァ?」
 こんなに怒られては、とても怒った顔を見てみたかったから、なんて言えない。居心地が悪いまま、ぼくは笑顔をうすら浮かべている。どこにでもいる僕たち。
「もう、次やったら怒るからね!」
 そう言うと彼女はまた自分の作業に戻る。アイスコーヒーのカップが汗をかいている。滴がつぎつぎと机に染みていく。
 この子のことをもっと知りたくて、ついついちょっかいを出してしまう。笑ってごまかすけど、大抵のことは許してくれる。そんな関係。彼女はそれを待つわけではないにしろ、本気で怒るというわけでもない、らしい。そんな気がする。でも、そのうちに本当に怒られるのかもしれない。冗談で済んでいるうちが花かなと思う。こっちをみて欲しいだけなのかもしれない。彼女のどんどん変わる顔を、見ていたい。
「あんたはやることないの? イタズラし放題じゃない」
「そんなことしないよー、子供じゃないんだし」
「じゃあ、さっきのはなんなのよ」
「えー、気まぐれ?」
 笑ってごまして、また新しい彼女の顔を見た気になった。人と人の関係は、こんな顔するんだ、の積み重ねかもしれないと思う。関心を持っている限りは。くるくる変わる彼女の顔を見ていて、思う。まじまじと人の顔を見ることなんてないけれど、どこにでもいる僕たちの顔は、至って平の凡で、それでも、って思う。
 見たことのない彼女の一面を知るたびにうれしくなる。僕たちは、知っていることでその人を判断してしまう。知っていることで知らないことを補いがちになる。そうやって裏切られることさえも、彼女を楽しむ秘訣なのかもしれない。
 唐突に二人称が『あんた』になること。カップが汗をかいても拭わないこと。怒ってむくれると唇の形がかわいいこと。
 一瞬でも見逃さずに彼女を見ていられるのは、彼女のそばにいられるから。まじまじ見ても怒られることもない。どこにでもいる僕たち。
 彼女を、本当に怒らせたことは、まだない。そこまでの関係では、まだない。怒らせることにうれしみを感じているけれど、それは彼女の怒りかたを知りたかったから。怒っても、たぶん大丈夫って思う。そういう関係では、ある。そう自覚している。
 彼女が構ってくれることがうれしい、なんて、やっぱり子供じみていて、それさえも許してもらえる感じが彼女にはしていて。そうやって甘えているのだと思う。
「さー、課題でもやろうかな!」
「やることあるんじゃん。さっさとやりなさいー」
「真琴の顔がかわいいからさ」
「はぁ?」
「ウソだよー」
 照れている彼女の顔を見て、また心の中でほくそ笑む。自分の中に小鬼がいて、そいつがこうして彼女の心を乱してやれー、ってささやく。そういう本能みたいなものに従って、どんどん言葉が口を突いて出てくる。そんなことしようとなんて思っていなかったのに。なんでなのか、わからないけれど、わるい雰囲気にもならないので、ぼくはうれしく思う。
 どこにでもいる僕たちは、二人でいたら、そうではないように思えてしまう。彼女もそう思ってくれているに違いないって思う。彼女の表情がそう言っている。
 彼女のことを、もっと知りたいって、体が、心が、叫んでいる。
 もうすぐ、夏になる。

生きる その百八番目のし

 いつも消化できない、書ききれないなにかを抱えている
 たまに書いても、どうにもまとまらず、人の目に触れることも、その必要もないものが出来上がる
 
 この世界の、人の目に触れているもの、そうなるべきもの
 自分自身にさえ、わたしはそれを躊躇してしまう
 世に出るなんて大袈裟ではもちろんなく、人と接することだって
 
 どこにも自分は居らず、ただ生かされている
 生きているしかなくなっている
 
 人はいずれ死ぬ、必ずその途中で
 
 消化できない想いを抱えると、わたしはうれしくなる
 まだ生きていてもいいような気がして、
 生きる理由ができたような気がして
 
 どうせ途中で死ぬのだ、終わらせるより、生き切りたい
 
 書くことの快感を知っている
 どんなに書いても書き切れないことを知っている
 
 生き切ることも同じだろう
 だとしても書くだろう
 だとしても生きる

なにかを人のせいにする不幸せ

 被害者意識を持っている限り、しあわせになることはない、って最近は思う。自分のなにかを誰かのせいにしているかぎり、自分の人生を生きることはできない。
 自分が在ることにいついて、自分の為したことについて、自分の影響について、その人がなにを考えるのかは、その人による。でも、自分に関することについてその人が責任を負わないなんてことはない。どんな場合であっても。自分がその身体で、その精神で、そのまとわりついた評価で生きていくのだから。
 降りかかる何かを払い除けるのは自分である。自分にしかできない。どんな場合でも。自分の置かれている状況を本当に覆すことができるのは、あるいは受け入れてしまうのは、自分でしかない。なんらかの形で生きるのだから。
 自分に起きたことを、受け入れるしかない。自分の不幸や禍を受け入れるしかない。その上で、どうすればいいのか、どうしたらよかったのかを自分なりに対応していくことでしか、人生はない。誰かのせいにして、それだけで済むことなんて、人生にはない。自分のことは、明らかに自分が負っている。
 そして、自分を拓くのは自分である。どんなに人がレールを敷いたところで、本人がやらなければ、やれることはなにもない。意思があればなんでもできるとも思わないけれど、その人にやる気持ちがなければ、できない。
 生きていることを楽しもう、と思えることは難しい。
 人生をより良くしよう、と思えることは、とても尊い
 被害者意識があけた心の穴を、ぼくは持て余している。巣食った心の穴。そこに埋めるものがない。またすぐに被害者ぶってしまう自分がいそう。
 愛し愛されることでしか、自分を保つことはできない。そこのところが壊れつつあるのをなんとか持ち堪えている感じがしている。日々、余裕がなくて不安定。誰を信じたらいいのか、信じるべき人を失っている。見分けがつかない。どこにもいない。
 自分が信じたらそれで信じるのだろう。それだけなのだと、わかっている。でも、今の自分は予断を許さない。一つの過ちで底を突くだろう。それを賭けられる人が友人知人にない。愛する心を失いつつある。愛されるための余裕がない。愛されるはずもない。
 別に、恨みがあるわけじゃない。恨みを晴らそうと思っていない。そうしたら楽になるとも思わない。関わりたくない。思っていたくない。
 被害者づらすることを、いまは醜いと思っている。
 ただ楽しくいたい。ただ幸せでいたい。不幸せでいたくない。幸せであるのなら、そう自覚していたい。せめて幸せであろうとしていたい。せめて楽しくあろうとしていたい。
 それだって難しい。