どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

再会と落涙

「ただ、会ったというだけで、涙を流してくれる人がこの世界にいると分かっただけでも、ボクはうれしいよ。生きていてよかったよ」
そのまま彼女はこちらを見ることもせずに泣いたままだった。ぼくは続けた。
「だから、泣くのをやめて? 笑顔を見せて。久しぶりに会ったのに、くしゃくしゃの泣き顔なんて」
そういうと彼女は、キッとこちらを見つめると、言葉をぶつけてきた。
「ずっとあなたのことが心配で、それで、どうしようもなくて」
「そうだね」
「だから、会えてうれしいから、涙が止まらなくて。ごめんなさい」
と言って、彼女は心からうれしそうな顔を浮かべた。マスク越しにもそう分かった。
 誰かと再会するということが、どのくらいの奇跡なのか、って、どうやったら人に伝わるだろう。どうにもならないことが、どうにかなることの、何が奇跡かなんて、わからない。その、どうにもならなさは、やっぱり伝えることもどうにもならなくて、やっぱりどうにもならない。伝わらない。
 会ったというだけで、涙があふれ出てしまう。身体中の水分がなくなってしまうんじゃないかと思う。干からびてぼくたちはミイラになる。
 ぼくたちは、どうしたって再会する見込みはなかった。どこで彼女と会えるのかなんてわからなかった。この、インターネットの発達した世界に、僕たちは放り出された。それでも、会うことは叶わない予感しかなかった。それが適しているかのように。
 人と人が、どういう風にマッチするのかなんてわからない。誰とでも良いマッチができるわけじゃない。どこでもマッチするわけじゃない。それ相応の、適した時間と場所ってのがあって、そうやって、僕たちは再会することができた。
 会った瞬間に、彼女と分かった。以前触れていた時とは全然違ったシチュエーションにも関わらず、これは彼女に違いないと、直感していた。これは、彼女であると、魂が叫んでいた。
 目と目が合った瞬間に、彼女もそう思っているに違いないと分かった。どこにでもいる人のリアクションではなかった。誰でもするリアクションではなかった。まずぼくたちは面と向かって近づいて、目配せをして、それから泣いた。再会を祝して。奇跡に感謝して。たぶん、全ての男女の出会いは、どこにでもあるものではない。それぞれが、それぞれにとっての特別な何かであって、そのときにしかあり得ない何かであろう。ありきたりだとしても、それはその二人にとって特別であることにちがいはない。ぼくたちにも、きっと、それはそういうものだった。
 彼女が泣き止んで、落ち着いてから、ぼくたちは喋った。映画館の、片隅に。みるはずの映画をすっぽかして、ぼくたちは喋り合った。こんなふうに彼女と話すのは初めてだったかもしれない。仕事として会っていた人と、こうして会える偶然。そして、こうしてなりふりかまわずに話すことができているという共通意思。通じ合っているのなら、そう、知りたかった。そう思わずにはいられなかった。どこにでも彼女はいるわけじゃなかった。
 どうしたら彼女の時間を奪うことができるのか、ぼくは知りたかった。どうしたら彼女を誘惑できるのか、知りたかった。そのことに攻略法なんて、存在しなかった。自分の経験不足を呪った。それでも、そうでなくては、彼女とは出会わなかったろう。彼女と出会うまでの人生で、何が欠けたとしても、彼女と出会うことはなかった。そう、本当に思った。
 彼女がハッとしてメイクを直しに行った後に、夕食に誘った。

書くことで自分をよくしたい

 日々の楽しみは、文章を書くことくらいになってしまった。それも、そんなにいいことでもないし、ただ惰性でやっているだけのような気がする。気がつくとノートに何か書いていて、それがうまくいくというわけでもなくノートが嵩張っていく。やりたいことなんてたぶんなくて、ただただ、やりたいかもしれないことで時間を埋めているだけのような気もする。言い訳ばかりして書いている。いや、言い訳をして言い訳として書いているのかもしれないし、自分でもよくわからない。とにかく健康でいたいし、とにかく生きていたい。できれば、楽しく。
 どこにでも快楽はあるのだけど、それをむさぼりつつ、ときどき書いている。自分がどうやって生きているのかよくわからなくなる。自分の時間をどうやって埋めるべきなのか、大抵わからない。自分を社会の中で役立てる方法を、私は知りたい。でも、そんな安易にはなくて、お金を稼ぐこともできなくて、快楽ばかり消費している。例えば、本を読むだとか。動画を眺めるだとか。
 でも、思うことがある。文章を書くことほど、自分を活性化させることはない。何かを消費しても、それはそれを作った人に自分を合わせて形作ることにしかならない。書くことは、輪郭が自分になる。どんなにくだらないことを書いたとしても、それは書いた人間がくだらないということで、そういう形になる。
 いろんなことをごまかすことができないというのは、自分の欠点かもしれない。人をおだてたり、おべっか使ったりができない。謙遜も苦手。形としてはできるけれど、それは社会生活として必要だからで、本当には自分のことはわかっていないと思う。そう、わかっていない。
 社会の中での自分の立ち位置とか、存在とか、そういうことはよくわからない。大抵の人は分からないものなのかもしれない。自分をどう活かして生きていたらいいのか、自分にはよく分からない。活かせないまま生きている人がいるのも知っている。この何年かは自分もそうやって生きていて、そうして破綻した。
 自分の輪郭みたいなものを、私は知っているようで、知らない。何かを消費しているだけでは分からない。自分で能動的に何かをして、初めてわかるんだろう。何かを作ってやっとわかった気になるんだろう。どこまでいっても、書くことは終わらない気がしている。どこに行ったら書けるのか、いまだによく分からない。自分のものなんて書けないかもしれない。し、そういうものなのかもしれない。自分の形のあるものなんて、たぶんない。書くとしたら、みたいなことをよく妄想する。その延長で書いているような気がしている。応援していてくれる人はいない。見守ってくれている人はいるようだ。そのくらいだ。
 書くことで、自分をよくしたいって、思う。そういう理由で書くのが一番いい。そうできると思う。よくしたいって、それを以て何かを買うとか食い扶持になる、とかそういうことから、書くこと自体で自分をよくする、って事まで含めて。今はできないことが多いというか、どうやったらそうなるのかよく分からない。書くことだけが機能していて、その実態は自分をよくしているのかよく分からない。ただ暇つぶしをしているだけなんじゃないか。それでもいいとさえ思ってしまう。
 書くことで自分をよくする、そういう総体として書くことはある。そこには治療という意味もある。書くことで自分を知るだろう。書くことは自分にとって発散であり、治療であり、治癒であり、慰めである。そういう部分でしか機能していない。
 いろんなことから影響を受けているけれど、そのどれも自分のしたいことを本当にしているのか、よく分からなくなる。ただ目についたものを摂取しているだけなのでは。自分のしたいことすら、ぼくにはよく分からない。自分のしたいことはたぶん決まっていて、そこに向かってすら、たぶん、いない。そうすることをおこがましいと思っている節がある。というかそうする勇気がない、というか実力がない、というか、そんな気分にならない。こうして書いていると、いろんなことがどうでもよくなる。
 書いても書いても終わらない、そういう沼、みたいなことに溺れることを羨ましくも、恐れているのかもしれない。どうでもいいという気もする。
 書くことで自分をよくすることができるなら、なんでもいい。書くことでいろんなことがつながっていけばいい。書くことで自分をバージョンアップすることができるなら、それでもいい。書くことで自分を改良していきたい。書くことで自分をまともにしたい。書くことで爽やかな気持ちになりたい。書くことで楽しくなりたい。書くことは魔法ではない。実行可能な、何かしらの行為。自分が書くことでどうにかなるわけでもないのに、書くことに依存している。書くことの心地よさを知っている。書くことは、きっと、自分をよくすると、不思議にわかっている。書くことに賭けたい、というほど大袈裟ではない。でも、書くことの快感を知っている。書くことでよくなる自分をかんたんに想像できる。こうしている今だって。書くことでよくなっている。また、自分を知った気になっている。そうやってよくなる。そう信じている。このままいく。

雨のにおいと傘

 雨なんて降っても、休めるわけでもないのに、こうして雨の匂いがするとなんだかうれしい。学生時代の部活で、雨が降ると練習が楽になるのを体が覚えているのかもしれない。
 どちらにしても、いい匂いでわたしは好きだ。この匂い。梅雨のこの時期の匂いって感じがする。初夏の、雨の、予感のする、匂い。だけれど雨降りは全然好きじゃなくて、むしろ鬱陶しいくらい。こんな日は、外に出るのも億劫になる。
 雨の降る匂いは、雨の予感。雨が降るなァ、っていう予感の匂い。天気に匂いがするのって、この時期の、この雨くらいなのではないか。梅雨に入ったことを、この匂いで知った気になる。雨が降ったからって、 休めるわけでもないのに。
 朝起きて、開いている窓のそとから雨の匂いがして。あぁ、雨だなぁって、一瞬気が抜けて気分が上向いたはずだったのに、やっぱりあぁ雨だなぁ、って、外に出るのをためらう。
 家を出ると、まだ雨は降っておらず、でも、この匂いがする限りは降るのだろうし、天気予報も雨の予報100%だし。わたしは傘を持って家を出る。
 彼と買った傘。
 お気に入りの雨具を持ってると、雨の日が楽しくなる、なんて彼が思い出したように言って。いつもビニール傘の彼が傘買おうよ、なんて。わたしはそんなによくもないけれど、それなりの透明のビニールではない、至って平の凡の傘を持っていたのだけど、まぁ、良いか、と思って彼について行った。別に自分は買わなくても良いのだし、彼の買い物するのについていくのは楽しかったから。
 傘の売っていそうな店を何軒か回って、彼がこういうのがいいああいうのがいいなどと言って、次々と傘をひろげていく。そうやって傘を持つ手を見るともなしに見ている。ひろげた傘で他のお客さんに気を遣う彼を、見ている。
 ひろげると内側が青空になっているものや、星空になっているもの。外側からは黒いシックな柄なのに、内はハデな模様のもの。雨の日を楽しむ工夫の詰まった傘を、彼と見ていく。ビニールではない傘って、安いのは500円くらいから、上を見たらキリがないくらいにたくさん種類がある。細くてステッキみたいなものから、もう棍棒みたいなものもある。
 そのどれも、傘である。機能はそれほど変わりない。ボタンを押したら、傘が開くんだろう。開いたなら、雨を避けることができるんだろう。それ以上の機能はきっとない。
 彼とそのとき買った傘。鮮やかなブルーの、細身の、いかにも女性向けの、傘。
 天気で気分を表すとしたら、きっと、いまの天気みたいな気分だろう。豪雨、間近。匂いが一瞬うれしくて、そして、すぐに大雨に打ちのめされることになる。
 生きている、って感じがする。
 会社に着く頃には、降り始めているかもしれない。どこに行ってもこのそら色の傘を忘れることは、ない。